消去法と減点法

 多分この記事では自分の話を過度に一般化すると思うけれど、個人的なメモ書きだから許してほしい。あとめちゃくちゃ心の底から言葉を掬ってるはずだけどそれでも本当のこと言ってない気がしてくる、すごいね…


 表題の2つ、こいつらとの付き合いはかなり長いし、多分これからも付き合っていくと思う。これは僕の持論だけど、幼少期から成績が優秀だった人間はこいつらに囚われる程度が強いんじゃないかと思っている。そういう人間ほのかなど得点より失点を数えるほうが早いし、正解以外の選択肢を全て潰す方が確実だから。

 こいつらに少し苦言を呈そうとしているわけだけど、それはやっぱり何かを否定することで何かを選び取ろうとする、そういう側面からだと思う。多分仮想敵も含め誰かを否定して自己肯定感を得ようとする発想に違和感を感じるのと近い。勿論そういうやり方はある程度思考の精度を上げるし、例えば数学的な「背理法」は直接導けない命題を数学的な合理性を持って証明するわけだけど、現実ってそうじゃないよねと思う部分がある。

 人生は選択肢の連続だ。多分銀魂の阿伏兎が言ってた。だけれども現実の選択肢は曖昧で、大抵の場合取りうる選択肢など無数に存在する。意思決定のプロセスは大抵選択肢を増やしてから絞り込むが、何かを否定するやり方が通用するのは後半のプロセスだけだ。そして、無数の選択肢からおおよその方向から選択肢を拾い上げるとき、より重要となるのは自分がどうしたいかを拾い上げるプロセスであり、それは決して否定から生まれるものではない。

 僕はどうしたいだろう。転職や婚活を人生の活動として認識し必要性を感じながら、「今の職場でやっていくのがキツいから」「一人で生きられないから」などと、否定に選択を任せていないだろうか?僕はまたいつものように、自分の空虚さと向き合う時期を迎えているのだろう。

 「何を欲するのか?」という問いに消去法を使わずに応えることは僕には一生できないかもしれない。だけれども、きっとこうして苦しむ度に、否定に依拠しない純然とした意思が出て来てくれると信じている。この指針は僕が生存のためにでっち上げた信仰かもしれないが、それでも信じている。これは「苦しめば信仰が得られる」ことへの信仰であり、対象が神や宇宙から個人の欲望に変わったものの、宗教史が幾度となく辿ってきた苦行の道なのかもしれない。

 だから僕は、これからも苦しみながら生きるだろう。

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