知りたくない

 気が向いたし時間あったので。最近はどこか知りたくないような気がします。コロナのクラスターだの、ロシアとウクライナの戦争だの、きっとそういうものがこのところよくあるからですかね。僕はそれらについても詳しくないですし、また他の諸々についてはさわりすら知らないのでしょう。僕は自分との関係が薄く、知る意味を感じられない対して興味が強い人間ではないです。コロナはかかるときはかかるでしょうし、戦争は自分に関係したときには終わりでしょうし。だったらきっとそんなものは知らずに生きていきたいのです。

 昨今では知ろうと思えばなんだって知ることができます。遠い国の家を細かく見ることもできますし、とっくに死んだ人間の出生を知ることができます。僕らはそれらを知ったとき、自分の世界観と照合し、齟齬があれば現実か世界観かいずれかを歪める必要性に駆られます。

 話はかわりますが、「実験・観測データ」が少ないほどそこにシンプルな「科学理論」を作ることは簡単になります。最近読んでいる本では倫理の観点で「常識的な倫理的判断」の点を「社会の基礎理論」が通るように検討を重ねていました。僕らは自分の中で同様の行為をする必要があると思います。即ち、「経験・知覚した物事」の点の数だけ「個人の世界観」を調整する必要があります。

 おそらくその点が多ければ多いほど単純な筋書きで世界を語ることは難しくなるでしょう。そうやって自らの世界を複雑にすることは深謀遠慮の一助になるとは思うのですが、自信や強い主張を難しくさせると思います。SNSで強い言葉を使う人々の中には現実を著しく歪めて自らのシンプルな主張通そうとする人間もいるように見受けられますが、一方でシンプルな主張を正しく使う人にはカリスマ性を感じ強く惹かれるものを感じます。

 「オッカムの剃刀」という言葉がありますが、求められるのは現実の点におおよそ矛盾しない範囲において、できる限りシンプルな世界観を打ち立てることでしょう。僕はそうやって強く自分とその世界を持つ人々が大好きです。ついつい沢山の現実に流されてシンプルに自分の世界を組み立てられない僕は、限られた自分の生を早々に見限り、今見える点で線を引いてしまいたいのだろうと思います。
 知り、変わることは若者の特権です。まだ若者ではあると思いつつも、ギアの変えどきを僕は探しているんだと思います。自分の世界にないものを排斥し、世界観を守るために世界を歪める老人にまではなりたくありませんが、大きく変わることのない壮年を見据えたいんでしょうね。

 僕は嘘をつくことも世界を歪めることも嫌いなので。どうせ2つの目では全ては見えないので。だから僕の根底を揺らすようなものは、きっともう知りたくない。

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