信ずるものは救われる

 僕には信仰が致命的に欠落していると思う。それは自分には価値があるという信仰であり、自分のしていることは善であるという信仰であり、自分の欲するものに対する信仰だ。世間は誤りを妄信する人間をあざ笑うことが多いけれど、一向に自分の中に信仰を持とうとしない僕のような人間も同様に嘲笑されるべきなのではないかとおそらくどこかおびえている。

 自分との関係が相手にとって快いものだと信ずることが出来なければ、他人と深く関わることは難しい。自分が外界に対して為すことが善いことだと信ずることが出来なければ、何かを為すことは難しい。自分の欲望をすら信ずることが出来なければ、何かを満足に欲することすら難しい。何も信じられない人間はいつまでたっても自分の檻の中でぐるぐると回ることしかできず、自分をすら御しきれずにうずくまってばかりだ。

 信ずるものは救われる。信仰の対象が人を救うわけではなく、「信仰」という状態そのものによって眼前の霧は晴れ、歩みは力を得る。僕はいつだって自分の中にそれを見いだせず、誰かの言葉を一時的に信仰してはすぐに我に返って生きてきた。要はずっと指示待ち人間だったし、そこからの脱却が出来ない憐れで矮小な男だ。堕落に怯え、脱線に恐怖し、そうやって生きてきたけれど、きっといい加減に何かを避けるばかりの生にうんざりしているんだろうと思う。何でもいいから何かを心の底から信じて、その導く方へ歩きたいんだと思う。何もない僕を信仰で満たしてほしいんだと思う。

 たとえ地獄に続く道だろうと、信じて歩く人間は、少なくともその歩を信じられる間は幸福だと思う。反論はあるかもしれないが、私はそう思う。きっと地獄への行進は天国への迷走より美しい。あくまで主観的な見方でしかなくて、関係者からすればたまったもんじゃないとは思うけれど。

 僕は何を信じればいいんだろう。

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