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お墓を建てる仕事って。。。③~何度目かの挫折

新聞社って、当時就職率は極めて100%に近い売り手市場だったバブル末期の頃でもかなり強気な採用方針でしたね。4次面接か5次面接までありました。4次以降は役員面接という設定の新聞社が多かった気がします。何とか必死に勉強して、3次面接まで進んだ新聞社もありましたが、まあ、結局、新聞社への就職は叶いませんでした。

「さて、どうしよう。。。」

でも新聞社以外は全く就職活動してなかったので、他に就職する宛てもありません。
どうするんだ。。と思いながら、心の中では「家に帰って父の仕事を手伝うか。。。」という気分でした。それ以外に選択肢はなかったです。
新聞社に就職。それがだめなら家業を手伝う、という崖っぷちに自分を追い込んで就職活動をしていたのかもしれません。

当時の気分は凄く情けない、感じだったと思います。
同級生はほとんど、一流企業に就職していました。友達の女の子は大手新聞社に入った子もいました。日本最大の発行部数を誇る大手新聞社です。
そう言った中で田舎に帰って家業を継ぐ、ということは明らかに「負けて帰る」という気分が強かったのは間違いなかったです。

ほぼほぼ、やる気が失せてましたね。なにもかも。。。

自分にとっては、果たして何度目の挫折だったんでしょうか。

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中学から高校に進学した時は、希望の高校に進学できませんでした。高校生活はほぼ、その挫折感から抜け出せなかったですね。とにかく高校生活は砂漠のような3年間でした。

卒業直後、1歳年上の「尾崎豊」という才能あふれるシンガーの「卒業」という歌が流行っていて、友人の車の中で初めて聞いた時は、「この歌詞通りの3年間だったな」と心の底から思いました。

やっとの思いで卒業したと思ったんですが、大学もすんなり入れてもらえず、結局浪人して入学、5年かかって卒業して、就職もダメだった。。。
まあ、他人からしたら「どれだけ無駄な時間かけてんだ!!」って感じですね。同級生から3,4年くらい遅れているわけです。

俺は何のために生きているんだろう、という疑問が常にまとわりついていました。そんな中、父の元へ帰り、家業でもある、「石材店」で働くことを始めました。



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