第三編 精神 第六章 精神解剖(1)

 多数の学者や研究家が
精神を種々に解剖して説明しているが、
その帰着するところは
ほとんど大同小異である。

しかし会長は
長年の研究と実験との結果、
それらと大いに異なるところもあるのである。

そもそも精神について
詳しく説明するには、
これのみでも
容易に語り尽くせるものではないのである。

故にここでは
本会の指導書としての使命を果たせる範囲内で
極分かりやすく
かつ簡単に説明するつもりである。

まず我々の精神を分けて
これを3つにする。
便宜上、
第一精神、
第二精神、
第三精神
と呼ぶ。

 

第一精神

この精神は、
正邪善悪の見分けなく、
自我の利害のみを識別して
活動している精神である。

この第一精神はさ
らに二分して説明する。
その一つを
外意識
と称し、
他の一つを
内意識
と称することとする。

 

外意識

この意識によって我々は平常の活動をしているのである。

 

内意識

この意識は妄念幻想を起こす意識であって、
この意識が作用して我々が活動する時は
すなわちグレタ活動をなすのである。

例えば寝ぼけて色々の
グレタ事をすることがあるが、
これは外意識が休止(または静止)
していて
内意識が活動するのである。

神信心をする人が
「神の御姿が現れた」
と有難がったり、
「仏様の御姿が現れた」
等というのも
皆内意識の作用である、
つまり、彼らの心のなかに
「神または仏は御影があるものなり」、
という想像観念がある、
その観念が作用して
妄念幻想を製造する内意識が、
「有りもしない神や仏の御影」
を勝手に作るのである。
また幽霊を見るものも、
これと同一の現象である。
また狐や狸に化かされたという現象も
みな内意識の作用である。

 

神経衰弱の者やまたは精神を過労した者には
種々の錯覚や幻覚を起こすことがあるが、
これらもみな
内意識の作用に基づく現象であるのである。

錯覚とは
誤って知ること、
例えば草の影に人が立っているように見えたり、
他人の声が我が子の泣く声に聞こえたりすること、
その他全て誤って感受することをいう。

幻覚とは無いものを有るがごとく感ずる事、
例えば、神の影や仏の影や幽霊を見ることは
皆幻覚である。
また誰の声もしていないのに
自分を呼ぶ声が聞こえたりするのも
幻覚というのである。

 

また狐憑き病だの
神が乗り移ったという現象も
皆この内意識の作用に基づくものである、
故にかくのごときの変態精神病に
山畑式の法術を応用して
内意識のグレタ観念を除き、
そして外意識が活動するようにしてやれば
すぐ治ってしまうのである。

またこれに反して、
完全なる精神状態の人の
外意識を奪って狐に化かされたと同じ心理状態にすることもできる。
また幽霊や神仏の御影を見せることもできる。
無論狐にすることも神を憑依させせることなども
思いのままにできるのである。

 

 

 

第二精神

この精神は
正邪善悪を識別して活動する精神で
第一精神を支配しているのである。

故に正善なることに対しては
第一精神を協同して活動するが、
悪なる事に対しては活動しないのみならず、
第一精神の活動をもこれを静止するのである。

 

第二精神の静止も及ばず悪を敢行すると、
第二精神はその悪を敢行したる第一精神を
どこまでも攻撃するのである。
第一精神は
寝ても起きても間断なく
第二精神の攻撃を受けているので、
ついには精神活動は完全に営まれなくなる
=生理的機能を支配する精神が完全なる作用ができなくなってくれば、
当然その生理的機能に
欠陥が生じるのである。
これすなわちこの現象が病である。

 

よく世間でいうことであるが、
老人を粗末にしてその老人が亡くなってから
幽霊になってでてきて若いものを悩ませるので、
それがために、ついにその若い者が
重病になって苦しんでいる
ということは各地にあることであるが、
これらは、老人を粗末にした
非人道的極まる行為をした第一精神が第二精神の攻撃にあり、
その精神活動が不完全になるから
生理的機能上に故障が起こり
すなわち病気になるのである、
また或いは幽霊などにも苦しめられるのである。

種々の犯罪者がそれを自首するのも、
この第二精神の攻撃を受け
その苦痛に耐えられなくなって自首するのである。

我々が邪悪を敢行すると
第二精神は寝ても覚めても間断なく攻撃するのである、
故に我々は絶対に悪をなしてはならぬのである。
修養足らざる者は
第二精神の勢力が弱いから
第一精神は自己の利益のみに目をくれて
邪悪を敢行しやすいのであるが、
修養ある人はこの
第二精神の力が強いため、
邪悪には陥らないのである。

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