うまい棒の期待値と人生における期待値のコントロールについて。


まえがき 


前提として、『うまい棒』が『うまい』かどうかはこっちが決める問題なんだよな。聞いてるか全国のうまい棒。

絶賛野草入浴剤プロダクト開発中のぼくも商品名を『最高の野草入浴剤』にする勇気はない、だってそら『最高かどうか』は向こうが決めることだから。ん、じゃあ『おれのフレンチ』はどうなのかって話なんだけど割愛。

以下本文続く。

うまい棒のネーミングについて

もうなんかうまい棒の存在が身近にありすぎて、大切なことをみんな忘れている。うまいかどうかを決めるのはそもそもこっちだ。我々カスタマー。顧客至上主義。

この国はうまい棒という概念が日常に沁み渡りすぎている。水の価値がわからないように。僕たちの日常に当たり前に漂う。うまい棒の概念。

「うまい棒」が「うまい」かどうかを決めるのはこっちなんだよ。

うまい棒と謙遜

賛辞と謙遜はセットなのだろうか。褒め言葉は素直にうけとろうぜ。

ほかの人から誉め言葉を「ぼくなんてぜんぜん凄くないです」「わたしは頭悪いんですぅ」「いや私じつは人見知りで」などのカウンターを人類はくりだす。素直にうけとる。おまえがすごいかすごくないかを決めるのはおまえじゃない。むこうなんだ。頭が良いか悪いか。コミ力おばけかコミ症かどうかも。評価は大抵「むこうが决めること」なんだ。出世、処世の鉄則。

処世と期待値のコントロール

うまい棒はビッグマウス。みずからうまいというアピール。駄菓子界のケイスケ・ホンダ。

人生において期待値のコントロールはすごく大事だ。めちゃめちゃすごい感じを出してはいけない。承認欲求とのせめぎ合い。いるかいないかわからないくらいがベスト。いろんな意味でのび太以上スネ夫未満を目指す。100人いたら49番を目指せ。地方国立大学出身くらいがちょうどいい。東大生の人生はつらい。期待という鎖。応えられなければ、失望される。「勝手におまえらが期待して落ち込んでいるだけ。」なのだけども今日も世界はそうやって運行される。今日も人はなんと愚かで尊いのだろう。

うまい棒の正しいネーミングとはなんだったのだろうか。深夜に考える。

「うまいかどうかはあなたが决める棒」「人によってはうまい棒」


自分できめること、他人がきめることをわける。

ぼくはこの作業を数年は続けている。これからも。たぶん続ける。

おしまい。




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