「論理国語」と「文学国語」

 その昔、小説家になりたい、という恥ずかしい過去を持っている。いわゆる中二病。なぜ恥ずかしいかというと、恥ずかしいものを書いていたから。結婚する前のことだが、妻にはとっくにばれている。

 私が絵を描くのがむちゃくちゃうまかったら、漫画家になりたかったかもしれない。だって、マンガの方が面白いもの。でも、絵は下手というほどではないけれど、うまくはない。絵がうまくなくたって面白いマンガは描ける、というのは『進撃の巨人』が証明してしまったので、漫画家にならなかった理由が「絵がうまくない」ことではないことはわかっているのだけれど、本稿の趣旨とは違う話なのでこれ以上は追求しない。

 高校の国語の授業が、2022年度から変わることになっている。
 現行の高校国語の科目は、「国語総合」「国語表現」「現代文A」「現代文B」「古典A」「古典B」の6科目。このうち必修科目は「国語総合」だけで、他は選択して履修することになっている。ただし、選択するのは生徒ではない。ほとんどの場合、学校あるいは学科単位で例えば「国語総合」「現代文B」「古典B」を履修するという選択をするので、生徒自身には結果として選択肢はない。
 こう書くとなんだか学校がとても理不尽なことをしているように思えるが、現代文と古典のAとBは単なるレベル分けだし(日本史や世界史なんかもそう)、国語表現なんかはたぶん受けるとがっかりする授業しか行われないだろうと思う。どんなことにも100%はないので例外はありうるけれど、まあ学校の決めた選択科目がほぼ正解ではある。

 さて、これが2022年度に高校に入学する生徒からは以下のような科目になる。
 必修科目は「現代の国語」「言語文化」の2科目。選択科目は「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の4科目。
 「国語総合」はもともと現代文と古典の2分野が収録されていたので、それがはっきり科目として分かれたというだけ。まあ変わらない。「国語表現」はそのままだし、「古典探究」も単に「古典A」「古典B」を横滑りさせただけだろう。変わったのは(そして学習指導要領改訂の狙いだったのは)「現代文A」「現代文B」を「論理国語」「文学国語」に分けたということ。ここからは邪推だが、たぶん「文学国語」は付け足しというか抵抗勢力へ向けての配慮というか、これまで通りでいい部分。でも、「論理国語」は今まで通りじゃダメな部分を強調している。「ロジカルシンキング」「批判的思考」…ビジネス界で求められている力、スキルを高校に育成せよと言っている。
 まあ、このこと自体は特に問題ではないと思う。たいていの子どもは自分自身の将来の目的も目標もそこにたどり着くために必要な行程もわかりはしないので、学校だったり行政だったりが「こういう人材を育成したい」という目的と目標をもって教育活動を実施するのは自然だし、効率もいい。どういう人材を育成するかという目的が、現状では「優秀なビジネスパーソン」になっていくだけのこと。そうした枠組みに収まりきれない人が学校教育からドロップアウトしていくのもまた当然の話だ。本来なら、学校教育からドロップアウトしたからといってその人の人生には本質的には何も傷がつかないと思うし。

 ただねえ、「論理国語」と「文学国語」。安直すぎないか。

 論理的な文章、わかりやすく筋道の通った文章を書ける人というのは、実は案外少ない。国語の教師でも、である。
 ずっと昔、教育実践を集めた事例集の単行本の編集を担当したことがある。執筆者は大学の教員から小学校・中学校の教員、校長先生、教育委員会の指導主事などなど20数名。盛り込むべき要素を示してそれぞれ2000字程度の原稿を執筆してもらうのだが、てにをはレベルの赤字も含めて、内容的または文章構成的な赤字を入れずにすんだ先生はほんの2、3名ほどだったろうか。中にはほぼ私が書き直したような格好になった先生もいる。主述はねじれるし、時系列はゆがむし、イギリスの先生が英語で書いたものを大学院生が翻訳した原稿などは本当に何を言っているのか意味不明な文章になっていたりもした。
 学校の先生でもそんなものだ。だから、論理的に考えること、論理的な文章を読み書きできるようになること自体は育成すべき能力であることには賛成だ。自身が論理的でもなく論理的な文章を書けない先生にまともな指導ができるかどうかという心配はさておいて。

 論理的な文章というのは、単に曖昧なものを可能な限り排除しようという姿勢でしかない。その文章が語っていることが正しいかどうかは別の問題である。そして、なぜ論理的でありたいと皆が望むかといえば、要は「説得力」を持ちたいというだけのこと、つまり、ビジネスにおいては相手にOKと言ってもらうことが非常に重要なので、そのためのスキルを身につけよ、説得について天賦の才を持つもの以外は、論理的に語ることによって説得力を身につけよ、というだけのことだ。誰でもキング牧師やスティーブ・ジョブズのような演説ができるわけではないので、単に再現性を高めるための方法論でしかない。そして、詐欺師が論理性を身につければ、だまされる人もより増えることになる(その前に、詐欺師が自身で「詐欺という行為は非効率でリスクの高い行為だからやめておこう」という結論にたどり着いてほしいものだが)。

 一方で、国語教育において「文学」をやたら重視する教員もこれはこれで嫌いだ。登場人物の心情の理解、表現の工夫を味わう、感情・情緒の面を育成する等々…。いやいやいや、他人の心情って本当にわかるの? 表現の手法を学ぶのならいいけど、味わうって何? 感情・情緒を育成するって、どういう方向に持っていこうとしてるの? ……私は文学自体が嫌いなわけではなく、文学を通じて価値観を押しつけてくる輩が大嫌いなのだ。なぜ、文学を読んで受けた心地よい感情をあえて言葉にして他者と共有しなければならないのか、そこが私にはわからない。いいじゃん、面白かった、で。

 さて、高い読解スキルをお持ちの方は、いま「あれ?」と思ったことだろう。
 「文学を読んで受けた心地よい感情をあえて言葉にして他者と共有する」という行為は、その文学の良さを、ひいてはそのときの自分の感情を他者に理解してもらいたいという狙いがある。読書感想文とかブックトークとか、これに類する試みは高校までいかずとも小学生のうちから国語の授業でやっている。そしてその取り組みは、論理的な文章が狙っている「説得」という作業と同じものだ。そもそも、文学自体も作家が持ち合わせている感情なり思念なりを詩や小説という形態を使って他者と共有しようという試みに他ならない。ビジネス界が求めているものを育む努力は、とうの昔に学校現場がやっているのだ。質の高低は別として。
 小学校で2020年度から始まったプログラミング教育も実は同じ。プログラミング教育を受けた子どもたちはみなプログラミングができるようになると本気で思っている人がいるとしたら大間違い。あれはすぐに結果がでる方法で物事の手順の組立と試行錯誤を身につけるものだ。ある意味ロジカルシンキングのスキルの育成でもある。そしてそれは、算数数学の授業で昔から学んできたことでもある。今更別の教科として立てる必要なんてないのである。本来なら。

 じゃあ、なぜ「論理国語」だったり「プログラミング教育」が必要なのだろうか。なぜ「子どもたちの読解力が低下した」と言われるのだろうか。

 これは私のカンだが、たぶん、コミュニケーションがとれなくなっているか、もしくはそのことが表面化してきたのだろうと思っている。もしかしたら、時代の変化についていけないオヤジ・オバハンどもが、自分の言っていることが若い人たちに通じないようなので、焦ってわめいているだけなのかもしれない。だとしたらとんだお笑いぐさだ。
 感情なり思念なりは一定以上のズレを発生させながら連綿とつながり続けている。と思っている。大して心配する必要はないのでは、とも。

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