右手の発見

 生後三ヶ月くらいの、布団に横になっている息子の様子を撮影した写真がある。首は据わっているが、一人で座ることもできないくらい。それが、自分の右手をじっと見つめている。
 これ、(たぶん)自分の右手を発見した瞬間だ。
 ちなみに、程なく同じようにして左手も発見している。右手を持ち上げ、左手も同様に持ち上げて、左手をじっと見つめている写真がある。右手を発見したら、当然左手も発見するわな。いつだって自分にくっついてるし。

 赤ん坊が自分の右手や左手を発見する瞬間がある、というのは、実は予備校の講師から教わっていた。シニカルな感じで穏やかに講義をする英語の講師だったが、英語は教わらずに子育てを教わったことになる。

 保育園で子どもたちの様子を見ていると、子ども同士の距離が非常に近いことに気がつく。ペタリとくっついたり、折り重なったり、踏んづけたり。コロナ禍の保育園がどうなっているかは知らないが、コロナ前はそうだった。子犬や子猫、子パンダと同じだ。自分と他人の境目がない。フランスの思想家、ジョルジュ・バタイユは、「生物は、すべて水の中に水があるようにしてある」と表現した。なに禅問答のような、と言うなかれ。自分と自分以外の区別がない、ということをうまく表現しているだけのことだ。しかしながら、バタイユは言う、人間は非連続な存在になってしまった、と。自分以外のものが自分とつながっていないことに気がつき、そのことによって世界の事物とのつながり(連続性)が途切れてしまっているのである。
 右手の発見とは、言ってみれば、最初に「自分以外のもの」を発見する瞬間である。
 いやいや、右手って自分じゃん? というツッコミがありそうだが、そうではない。この瞬間、赤ん坊は右手を便利な道具の一つとして認識するのだ。なんだかよくわからないけど自分が思った通りに動く不思議なもの、程度の認識かもしれないが、徐々に道具としての認識ができあがり、ほとんどの人にとっては最も重要なツールになるのだ。そして、道具として認識した瞬間、自分でありながら、残念なことに自分と地続きではなくなってしまう。
 まだわかりにくいかもしれない。2歳児、3歳児が折り重なるようにしているとき、子どもたちは自分とお友だちとの区分けが曖昧になっている。自分ではないということはわかっているのだろうが、とはいえ自分とそれ以外の境界が曖昧で、だから折り重なることに違和感を感じてはいない。長じるにつれ他者との距離が間遠になり、折り重なる場面も減ってくるのだろう。犬や猫は大人になっても人間の小学校1年生とか2年生くらいの感じだなと思ったことがあるが、子どもが折り重なっても平気なのはたぶんそれくらいまでではないだろうか。猫なんてずっと折り重なっているようだが。

 人が道具を使っているとき、例えばのこぎりとかノミとかそういう道具だと、切ったり彫ったりしている木の感触がそうした道具を通じて伝わってくる。その感触を頼りに、人は様々に調整しながら作業を進めていく。このとき道具は人と一体化している。道具は人の延長になっている。
 右手も同じことで、自分と一体化していながら同時に道具でもある。事故や病気などがない限り、原則としてずっと一体化したままの、非常に便利な道具でもある。それは、右手を発見した瞬間から続いていく。

 バタイユによれば、それは悲しいことらしい。それはそうかもしれないが、まあ、子育てに奮闘している人は、「あ、ホントだ、右手を発見した!」と無邪気に面白がっていればいいと思う。それが子育ての醍醐味だから。

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