記憶力

 「カニじゃないス、エビすー!」

 この台詞だけを見て何のことかわかった人は、相当な小林まこと通である。いや、何を隠そう我が妻はこれだけでどんな場面か前後の台詞まで含めてわかる。別段小林まこと通ではないのだが。

 この台詞、小林まことの名作マンガ『1・2の三四郎』のある場面で登場する。主人公達が高校柔道の市民大会に出場するにあたって、柔道軽量級でインターハイ優勝の実力を持つ参豪くんから本格的な指導を受ける。最初に柔道の基礎訓練である「エビ」「逆エビ」の説明を受け、主人公達が「エビだかカニだか知らないがちゃっちゃとやろうぜ」的なことを言う。参豪くんは「じゃあ、まずはカニス」(語尾に「ス」をつけるのは参豪くんの口癖だ)と言ってから、冒頭の台詞になる。一人ノリ突っ込み状態である。

 いや、『1・2の三四郎』の面白さについて語りたい訳ではない。語ってもいいが、その趣旨ではない。

 妻は、驚くべき記憶力なのである。
 『1・2の三四郎』のたったこれだけの台詞を読み上げただけで「○○のシーンだ」とすらすらと述べるのだが、若い頃に『美味しんぼ』で同様のことをやった。登場人物のとある台詞を読み上げただけで、その話の食材は何か、どういうストーリーかなどなどが全部言えてしまうのだ。『美味しんぼ』は当時既に80巻くらい出ていたが、1巻だろうが40巻だろうが80巻だろうが、同様にすらすらと答えていた。
 彼女は、面白いと思ったマンガは、一通り読み終わった直後にもう一度最初から読み直すことが多い。だから覚えるのだという。私も以前読んだものを読み返すことはあるが、直後だと先の展開がわかってしまっていて面白くないので、かなり時間がたってからしか読み返さない。そうしないと新鮮な気持ちで面白く読めないからなのだが、彼女は直後でもフレッシュに読み返す、が、読んだ内容はたぶん全部覚えている。物事の先読みをしない性格なのだろうと思う。

 妻の記憶力のエピソードはこれだけではない。どこそこに遊びに行ったのは何年の何月で、これこれを着ていった、私はこれを着ていて息子はこっちを着ていた、などのようにディテールまで克明に再現できる。この類のエピソードなら女性にはチラホラいるかもしれないが、今読んだばかりの本(文字ばかりの)の内容をほぼそっくりそのまま語って聞かせることができる女性はそう多くはあるまい。おかげで私は自分で読まなくても読書家づらをしていられる。

 たぶん妻は、様々な場面で脳みそをフル回転させているのだろう。他の人なら脳みそが薄ぼんやりとしか稼働していない場面でも、面白いと思った物事に対して驚くべき集中力をもって全力で取り組んでいるのだろうと思う。何事もルーチン化することで脳みそを極力カニみそ化しようとしている私とは好対照だが、大変そうなのでマネしようとは思わない。

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