大事なことはぜーんぶマンガに教わった

 我が家の本棚に『大事なことはみーんな猫に教わった』という本がある。なかなか魅力的なタイトルだが、読んだことはない。妻が持っていた本で、私の本と一緒に並んでいるだけのこと。
 妻と私とは読書傾向が見事に異なる。私は小説やら歴史やら哲学やらを好むのに対して、妻は何か雑学的なものが圧倒的に多い。みうらじゅんとか沢木耕太郎とかサライ別冊とか、その都度自身が面白そうと思った本を購入し、そこに連続性はほとんど感じられない。おかげで20数年前に結婚したときは一冊もかぶりがなかった。その後も、相手が購入した本を読もうとすることはお互いあるし、実際読んだりもするのだが、それでも読まない本の方がたぶん多い。
 マンガだと、文字ばかりの本よりもその傾向が薄れる、つまり、共通して好むマンガが多くなる。もちろん、私が『子連れ狼』とか『ドカベン』とかのような長編ストーリーもの(昭和感満載…)を好むのに対して、妻は『動物のお医者さん』とか『重版出来』のような一話完結をベースにしたものを好む、というおおよその傾向はある。それでも、『BLUE GIANT』も『ゴールデンカムイ』も夫婦とも夢中になって読んでいる。そういや、『アルジャーノンに花束を』も二人して名著に推す一冊だ。要は、面白ければ何だって読むということ。

 「近頃の子どもは本を読まない」というフレーズはどこか聞き慣れたものになっていて、文部科学省や全国図書館協議会のようなところから民間のシンクタンクまで、どんな読書量調査をみても確実に激減している。じゃあテレビを見ているかというとテレビ視聴も減っていて、大概はスマホをいじっている様子。ウチの息子もいわゆる読書はちっともしなかったから、実感通りではある。
 とはいえ、ここで一つ疑問に思うことがある。読書量調査はたいてい「月に何冊本を読みますか?」と訊ねている。電子書籍はちっとも普及していないから、この「何冊」というのはおおよそ紙の本と思っていいだろう。問いかける側も答える側も、ほぼそれしか想定していないだろう。そしてこの読書量減少を称して「活字離れ」という。ん?
 「活字離れ」という場合の「活字」が本当に活字そのものを指していない(指していたらもうずいぶん前から活字離れがおきている、つうか、活字に接しようがない)、いわゆるメトニミーであることはわかる。だが、このメトニミーの指す範囲が疑問だ。「活字」が「紙媒体であれ電子媒体であれいわゆる書籍とされるもの」のこととするのに、たぶんほとんどの人は違和感を抱かないだろう。だが、文字、言葉、文章ということでいけば、今どきの子どもはネットでもっと豊富なテキストに触れているのではないか。チャットのような細切れなものを除いて一定程度まとまった文章(500字でも1000字でも)を範囲に含めてしまうと、実は現代のお子たちの「読字量」は相当程度増えているのではないかしら。誰か「読字量」を定点観測してくれないかしら。

 文章よりもマンガ、マンガよりも映像の方が、情報量は多い。当然、受け手が想像で補わなければならない範囲も少なくなる。だから、それぞれの表現手法で描かれた物語なりルポルタージュなり評論なりに接するときの敷居も、より低くなっていく。文章よりマンガ、マンガより映像の方がより多くの受け手を獲得できるのはある意味必然だ。その結果知的レベルが下がるとか、読書をしている子どもの方がコミュニケーションスキルや礼儀・マナースキルが高い(ホントにそういう調査があるから驚きだが)とか、全く以てバカバカしい。結果として相関関係はあるかもしれないが、きっと因果関係はないからだ。
 様々な文化、思想、概念はどんな媒体からでも学ぶことができる。我が家は夫婦共働きだがお互いの仕事の話を子どもの前でも平気でする。仕事で腹が立った出来事を帰宅するなり相手に聞いてもらいたいとき、息子が「あのねえ…」と横から口を挟んでも、「いましゃべってるから待ってて」と待たせるくらいだ(ひとしきり終わったらちゃんと息子からも話を聞くからご安心を)。きっと息子はその夫婦の会話を聞くともなく聞いていて、そこから仕事について、ビジネスについて、相当程度学んでいるはずである。

 本当に面白いコンテンツを生み出せる才能は、たぶんメディアなんて関係なくて、頭の中のイメージを最も面白く表現できる手法にたどり着くのだろう。それがマンガだったりYou TubeだったりInstagramだったりするだけのこと。そして、子どもたちはそこから存分に学んでいく。何も心配することはない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?