理知を継ぐ者(58) 譲歩または制約について②
こんばんは、カズノです。
【向坂のドラマ】
これまでの話──あるいはうちの連載の内容から、この『笑の大学』の紹介とは、椿の物語がメインだと思うかも知れません。椿の話こそ、カズノがしたがってると思われるかも知れません。もちろんそれもあるのですが、『笑の大学』とはそもそも向坂のドラマです。向坂の変化/ドラマを追っていく物語です。
話したように椿は信念の人なので、物語を通して変化はありません。そう話すと、舞台や映画を見た人には意外かも知れません。
あの手この手で責める向坂に合わせて、くるくる考え方や脚本を変えていく椿は優柔不断に見えるでしょうし、なにしろ、向坂にOKを出してもらうためにおべっかを使ったり、だだをこねたり、その場の思いつきで妥協案を出したりもします。この彼はどうみても「情けないやつ」ですが、でも最初から最後まで、椿は実際にはどこも変わっていません。信じるところは何も変えていない。(優柔不断でせこいところもずっと同じですが)。
一方の向坂は、そもそも「笑いに興味がない」「これまで一度も笑ったことがない」人物として登場します。周囲からも「おまえには笑いのセンスがない」と言われています。そんな彼にしたら、最初からお笑い軽演劇など興味も関心もありません(だから公演中止に追い込んだところで何も感じません)。
だから無理難題をぶつけますが、けれど抗議もデモもせず、こちらの注文を受け入れ、何度突き放しても検閲を受けにくる椿に(彼の脚本に)いつか興味を持つようになります。信念を持つ青年に対して、ではなく、単純に楽しいからです。その脚本につい笑ってしまった、からです。
そうして最後には、椿の脚本のために、あれこれアイデアまで出したりします。検閲室で一緒に本読みやリハをやったりもします。
もちろんそこまでのめり込む向坂の姿はおかしくて仕方ないのですが、「これまで一度も笑ったことがない」向坂が、でも椿の直してきた脚本には「笑ってしまった」、それで興味を持つようになったというそこ、ここが『笑の大学』のキモです。
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もちろんこの作品には、戦時下で特に顕著になった「文化への検閲」、つまり政治への抗議の意図も当然あります。ありすぎるほどありますが、だから「戦争の悲惨」を表現した作品でもあります。実際、椿一にはモデルがいます。喜劇王・エノケン(榎本健一ですね)の舞台の座付作家・菊谷栄で、検閲があるばかりにペンネームで書いてきた文化人ですが、でも彼も、最後には赤紙が来て戦死しました。
まあそういう「社会的!」な作品でもあるんですが、けれど、この『笑の大学』でいちばん大事なのは、やっぱり「一度も笑ったことがなかった向坂が、笑った」というそこです。
喜劇作家・三谷幸喜にすれば、そういう「社会的!」などよりよほど、「笑わない人間を笑わせること」が、この作品では大事だったはずです。どれだけ鋭い社会批評があろうと、受け手が「政治や社会のことを考えなきゃなあ」と思ってくれようと、喜劇作家は「笑わせる」プロなのだから、笑われない喜劇など論外でしょう。
そして実際、この戯曲は常に笑いにあふれています。受け手に「社会的!」を考えさせるヒマもないほど、ともかくどんどん笑わせる。この戯曲で「笑い」は、「社会的」「政治」「自由を妨げる力」「戦争」より、ずっと前景にいます。
そういう意味で『笑の大学』は、三谷の本物の意志表明ですよね。
向坂に変化を与え、ドラマを与え、「笑う」キャラにし、「笑いにのめり込む」にしたのは、三谷の希望でしょう。喜劇はそのようにあってほしいし、世の中はそのようにあってほしいという、希望です。
だとしてもこの戯曲は三谷の、文化はそのようにあるべきだし、このように政治を──「自分の自由を妨げるもの」を変えるものであるべきだという意志表明と、その説得にきちんとなっているという、大事なのはそちらです。
「笑いは大事だ」と話すことは誰にでも出来ます。けれど、「笑いは大事だ」ということを笑わせながら伝えることはそうそう出来ません。受け手がいつか向坂に感情移入してしまっているなら(そうしてやっぱり笑ってしまっているなら)、やっぱりそれが椿の/三谷の器量だということです。
【譲歩または表現が生むもの】
さてそのように、相手に対する譲歩が文化的な表現を生みます。
向坂の注文を聞き、直した脚本のほうが前よりよくなっている。とても自分ひとり/これまでの自分では思いつかないような内容になっている。それはそれで、やはり椿の変化です。優柔不断ながらも信念の人・椿一もそういう変化を持った。受け手とともに一本の脚本を面白くし、仕上げていくこと。これも彼の得た新しい知見でしょう。
あれこれ無理難題を突きつけられたり、嫌がらせでしかないようなことを言われたり、おまえは時世を分かってないバカだと罵られたり、呆れられたりすることもあると思います。
そこで抗議することもできるけど、「いったん相手の言い分を受け入れて、さらにその上のことをすれば、相手を納得させることができる」「自分のテリトリーに相手を引きよせていく」「そうしていつか共にやっていく」、そういう方法もあるということですね。
なにより、そういった制約・プレッシャーの中から生まれてくる表現、生活、人生、仕事のほうが、よほど充実的なものだし、同時に、相手/周囲にとっても楽しいものです。個人の自由と公共の福祉。
文化的な表現、あるいは自己表現が文化的であること、それは、制約に対する譲歩から豊かになっていくものです。そしてこの豊かな表現は、いつか、いがみあっていた他人との共生すら生むかも知れません。
『笑の大学』はそのように終わるのですが、まだその光景は希望でしかないとしても、だったらそのほうがいいじゃんよ、じゃないでしょうか。
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