あれってなんだったの? 松尾潔③
作者と作品を分けずに考える、松尾の根拠(のひとつ)はどうもアメリカ/アメリカ人にあるらしい。ではそのアメリカ人とはどういう人たちでしょうか?
例えばアメリカ人とは、身内をまず擁護する意識/理念/習慣を持っている人たちです。
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例えば、何らかの犯罪をおかした息子や娘を、それでも父親や母親は、その是非や重度や社会的影響などまったくおかまいなく、息子や娘を擁護します。
極端な例でいえば、とある女性をレイプし射殺した死刑囚の母親は、それでも息子を擁護します。「そこまでしちゃったら極刑も仕方ないよなあ」と日本人のおれは思いますが、でも彼らはそうではありません。「あのコはそんなことする人間ではない、何かの間違いだ」「相手の女性にも問題があった」などなどいくらでも弁護を並べます。
どうもそれがアメリカ人なんです。というか、欧米式の共同意識です。
例えば本人の好き勝手(本人なりの意志として)で、海外で問題を起こした日本人がいたとします。中東あたりでうっかり、または意志的に一線を越えて、海外の政治組織とトラブルを起こした(それで拉致された)といった事件が分かりやすいでしょうか。
こういう場合、日本人だと「そんなの本人が悪いんだから助けてやる必要はない。自己責任だ。政府が動いて相手国と交渉してやる必要はさらさらないし、身代金を払う必要はもっとない。いくら税金かかると思ってんだ」という意見が出ます。
けれど、こういう意見は欧米では出ません。ともかく政治が動いてどうにかしてやるべきだ、になります。(国際的なルールで「テロ組織に身代金を払ってはならない」と決まっていても、裏で払うことが通例です)。
仮にそこで政治が動かない場合でも、それは「身代金が相手国の資金になり、国際情勢を危うくするから、簡単にはノレない」というものです。拉致された自国民を非難する声はまず聞きません。
まあその彼が自国に戻れば、「なんであんなバカなことをしたんだ!」と周囲から叱られるのかも知れませんが、いずれにしろ彼らは、「外」から「身内」「同胞」を「守る」ことは徹底しています。本人の「自己責任」だとしても(日本ではそう呼ばれるようなものでも)、彼を非難する声は出ない。
政治政府に限らず、社会や市民個々のレベルから、この「身内」「同胞」に関する「共同体としての擁護方針」は欧米圏では徹底しています。たぶんキリスト教精神と民主革命の理念が根本にあるのだと思いますが(フランス革命の理念「自由・平等・博愛」の「博愛」は実際は「同胞愛」のことです)(ちなみにもちろん「自由」は「本人の自由はどこまでも尊重すべき」というものです。誰かに悪く言われる筋合いはないし、こっちから言う筋合いもない)、さて本題に行きましょうか。
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『セント・オブ・ウーマン』というアメリカ映画があります。主人公はふたりいて、とある退役軍人・フランクと、名門校に通う優等生・チャーリーです。ちょっとした事情から知り合うことになり、交流を深めていくふたりのドラマが映画です。
さてその一方の主役・チャーリーは、ある晩、学校で、友人たちのいたずらを目撃します。いたずらといっても、校長先生を侮辱しようとする、度をこした悪ふざけです。
そのいたずらに引っかかって、見事、校長ははずかしめを受けるのですが、当然、彼はそれを許すことができません。個人的なメンツもあるし、校長としてのプライドもあるし、名門校の沽券にも関わる事態だからです。
それで校長は、裁判(のようなもの)を開くことにします。実行犯を断罪するためです。
校長はすでに、チャーリーがそのいたずらを目撃していたことを知っています。なので実行犯が誰かを、裁判の席で、チャーリーに問い質します。ここで実行犯の名をチャーリーが挙げれば、事件に決着がつきます。
けれど、チャーリーは口を割りません。
その裁判の前に、校長はチャーリーと、ある取引をしていました。実行犯が誰かを裁判で告げてくれれば、超がつくような一流校への推薦をしてやるとほのめかします。逆にいえば、実行犯が誰かを告げなければ、おまえの将来はない、ということです。チャーリーの未来は校長がすべて握っているという、そういう取引(というより警告)ですね。
さて一方で、実行犯の友人たちを、チャーリーはけして親友と思ってきたわけではありません。むしろ、うまく馴染めず表面上付き合ってきたような間柄です。名門校の同級生の彼らは、上流階級出身で、チャーリーは頭脳だけで進学してきた下流だという違いもあります。
まあ実際、上流出身のやな友達だと、はっきりいえばそういう関係です。
裁判で告発しなければ、チャーリーの将来はまた下流に逆戻りです。告発すれば超一流校の上流世界です。そこで告発する実行犯は、そもそも友人でもなんでもないような間柄です。
それでもチャーリーは口を割りません。それでも友人を裏切ってはいけない、と思うからです。(もちろん、校長のやり方はきたないとも思っています。進学をエサに友人を裏切るようそそのかしているのが校長です)。
裁判の席で、校長からあれこれ問い質されながら、チャーリーはのらくら返事をかわしていきます。これでは事件が決着しません。最終的に校長はキレて、チャーリーを見下すように言います。
「君は嘘つきだ」
そこで、チャーリーに付き添っていた(まあ弁護士みたいなものです)フランクが言います。
「だが告発者ではない」
のらくら返答を逃げているチャーリーは確かに嘘つきだ、でも告発者ではない、そういう意味ですね。
もちろんそう弁護するだけのドラマがチャーリーとフランクにはありました。フランクの人柄や心や過去をチャーリーが知り、チャーリーの人柄や心や過去をフランクが知り、互いに認め合う、それが映画の主筋で、そのクライマックスがこの裁判場面です。
またその「告発者」とは、日本語に直せば「卑怯者」になるでしょうね。
「チャーリー、君は真実を語ろうとしない嘘つきだ」
「その通り、チャーリーは嘘つきだ。だがけして、卑怯者ではない」
そういう会話だということです。
ここからはフランクの独壇場になるのですが、要するに「真実を語ろうとしない嘘つきだとしても、チャーリーは、我が身のかわいさに友人を売るような卑怯者ではない。この魂を高潔と呼ばずになんと呼ぶのか。名門校を出て、アメリカ社会のリーダーになっていくだろう人間に、これ以上に必要な資質があるのか」といった内容をまくしたてます。
そんなフランクの演説が功を奏し、議場の圧倒的な支持を得て、チャーリーは無罪放免になります。しかも拍手喝采です。
これがアメリカなんです。
これも、と言うべきか。
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それはそれで感動的なのですが、ところで、なんで日本人のおれにも感動的かというと、たぶんフランクが話していることが「義理」に関することだからでしょうね。
「嘘つきだとしても卑怯者ではない」「我が身かわいさに友人を売るような真似はしない」「身内や同胞との結びつきを大切にする」、これは日本的にいうと義理です。
松尾が「基準」にするアメリカ文化には、どうもそういう文脈もあるらしいと、そういう話でした。
なのでおれはR・ケリーの背景にも、実はこういう文化が脈々と流れているんだろうなあと思うしだいです。まあどんな国だって、ひとつの問題に対する意見や態度は、複雑に入れ乱れてるもんですよ。
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