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禅語の前後:無心(むしん)

 西行さいぎょうという、鎌倉時代の僧がいる。歌人として有名。エリート武士であったが、若くして突然に出家したという、その若いころの作と言われる歌:

そらになる心は春のかすみにて よにあらじとも思ひ立つかな
(西行「山家集」中・雑)

 ここで歌われる「そらになる心」というのは、心ここにあらず、うわのそらの状態を指すものだとされている。「よにあらじ」は、この世にはもういられない、すなわち、出家の決意。

 いかにも若者らしいみずみずしさにあふれているとともに、出家のための強い決心を表しているが、誰もこのような上の句から、このような下の句が導きだされるとは、思ってもみなかったに違いない。それが少しも不自然ではなく、春霞のような心が、そのまま強固な覚悟に移って行くところに、西行の特徴が見いだせると思う。
(白洲正子「西行」空になる心)

 これは平易な有心の歌であって、同時代の歌人はこの下句は、気はずかしい感じで詠めなかったものだ。西行はそんな言葉を平気で使い、しかも歌人たちにはとてもできない、湧きあがる気分を云いあらわし得ている。それだけではない。「よにあらじ」という出家の感覚を、暗い無常の情念から、何やら漠然とした明るい決心のようなものに変えている。
(吉本隆明「西行」Ⅲ 歌人論)

 禅の言う「無心」とは、うわのそらの気持ちとはぜんぜん違う、修行の末にたどりつける境地であって、「心の働きがいつか大自然の働きと同じようになり、あたかも赤ん坊のように、文字通りに無邪気で天真爛漫になること」(芳賀幸四郎「禅語の茶掛 続々 一行物」)なのだという。

 晩年の西行は、じぶんの歌について、「虚空の如くなる心の上において、種々の風情をいろどるといえども更に蹤跡しょうせきなし」、どんなものについて歌っても何の痕跡も残さない、これがほんとうの如来の姿だ、などと語っていたという。晩年に語ったというこの「虚空の如くなる心」というのは、禅語としての「無心」と同じものなのだろう。

 でも…、と、僕は思う。
 「そらになる心」、まだ若く、何者でもなく、何者でもないからこそのうわのそらの、その様子、そのありようというのは、修行の末にたどりついた境地としての「無心」と、とても良く似たところに居るのじゃないだろうか。ぐるっと回ってスタート地点、みたいな。
 あるいは、西行のうたう「そらになる心」というのを、文字通り、自己の意識の主格である心が春霞の空へとメタモルフォーゼしていく様、と、詩的に受け取ってもよいのかもしれない。

 霞たなびく春の空というのは、よい。眺めているとなんだか、一大決心してしまいたくなる。