禅語の前後:南泉斬描(なんせん ざんみょう)
村上春樹の長編小説に、「ウイスキーの銘柄と同じ名を騙る謎の男が、無抵抗な猫たちを次々と斬る」というシーンがある。かなり強烈で、一度読むと忘れられないと思う。
禅問答のような意味の分からないことを言いつつ、ジョニー・ウォーカーが楽しげに猫たちを斬り捨てていく様を、村上春樹の洒脱な文体が執拗に描く。心臓をとりだして口に運び、首を切り離して残りは捨ててしまう、鞄の中からはほら次の猫、ねぇこの猫には見覚えがないかい?
ホラーである。まごうことなきホラーテイルである。日本文学史上、屈指のホラーシーンであると、僕は思う。
なぜこの男がこのようなことをしているのか、なぜこのような暴力を描写する必要があるのか、作中ではまったく示されない。意味が分からないまま、けれどこのシーンを大きな転換点として、物語はぐぐっと、より謎めいた世界へと進んでいく。
三島由紀夫のほうが、まだ説明的である。高名な禅の逸話である「南泉斬描」を、三島は生真面目に、幾通りもの解釈を作中人物たちに語らせて、説明しようと試みてくれる。猫は自我の妄執を指すのだ、いや、猫は美を指すのだ、美は金閣だ、金閣を焼かねばならぬ。
この後段に南泉の弟子、趙州が登場して(猫騒ぎのとき彼は留守にしていたのだ)、話に落ちを付けるのだけど(その落ちも意味が分からない代物なのだけど)、前段の「猫を斬る」という暴力行為のインパクトがあってこそのこの逸話だろうとは思う(頭に草履を載せるだけでは後世に伝わる逸話にはならなかったろう)。
禅僧の暴力は、悟りを得させるための優しさから来るのだという。
愛のムチ、だなんて、まったく昭和の価値観である。パワハラ以前に犯罪である。
が、そこには確かに何かがあるようだ。無害で柔らかく暖かい優しい小さな生き物を理由なく無造作に片端から斬って捨てることでしか表現のできない、なんとも捉えがたいものが。
意味不明のものをロジカルに説明しようとする三島由紀夫よりも、意味が分からないものを意味が分からないものとしてただ示すという村上春樹のほうが、誠意がある文章のように、僕には思える。
…ちょっとGoogle先生に聞いてみた限りでは、南泉斬描とジョニー・ウォーカーを結び付けている文章が(意外にも!)見当たらなかったので、長々としているうえに結論もない与太話ではあるけれど、ここに書いておくことにする。