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禅語の前後:南泉斬描(なんせん ざんみょう)

 村上春樹の長編小説に、「ウイスキーの銘柄と同じ名を騙る謎の男が、無抵抗な猫たちを次々と斬る」というシーンがある。かなり強烈で、一度読むと忘れられないと思う。

 ジョニー・ウォーカーはぐったりとしたままの猫を机の上に置いた。そして机の袖の引き出しを開け、大きな黒い包みを両手で抱えるようにしてとりだした。そして注意深く布を広げ、くるまれていたものを机の上に並べた。小型の丸鋸、様々のサイズの手術用のメス、大型のナイフ。どれも今さっき研ぎあげられたばかりのように白い鮮やかな光を放っていた。ジョニー・ウォーカーはそれらの刃物を一つ一つ愛おしそうに点検しながら、机の上に並べていった。次にべつの引き出しから金属製の皿をいくつかとりだし、それも机の上に並べた。所定の位置という感じだった。引き出しから黒い大きなビニールのゴミ袋をとりだした。その間もずっと彼は「ハイホー!」を口笛で吹き続けていた。

村上春樹「海辺のカフカ」第16章

 禅問答のような意味の分からないことを言いつつ、ジョニー・ウォーカーが楽しげに猫たちを斬り捨てていく様を、村上春樹の洒脱な文体が執拗に描く。心臓をとりだして口に運び、首を切り離して残りは捨ててしまう、鞄の中からはほら次の猫、ねぇこの猫には見覚えがないかい?
 ホラーである。まごうことなきホラーテイルである。日本文学史上、屈指のホラーシーンであると、僕は思う。
 なぜこの男がこのようなことをしているのか、なぜこのような暴力を描写する必要があるのか、作中ではまったく示されない。意味が分からないまま、けれどこのシーンを大きな転換点として、物語はぐぐっと、より謎めいた世界へと進んでいく。

 三島由紀夫のほうが、まだ説明的である。高名な禅の逸話である「南泉斬描」を、三島は生真面目に、幾通りもの解釈を作中人物たちに語らせて、説明しようと試みてくれる。猫は自我の妄執を指すのだ、いや、猫は美を指すのだ、美は金閣だ、金閣を焼かねばならぬ。

南泉一日東西兩堂爭猫兒。
 南泉一日、東西両堂、猫児を争う。
南泉見遂提起云。
 南泉見て遂に提起して云く。
道得即不斬。
 道い得れば即ち斬らず。
衆無對。
 衆、対うる無し。
泉斬猫兒爲兩段。
 泉、猫児を斬り両段と為す。

碧巖集 第六十三則

 一山総出で草刈りに出たとき、この閑寂な山寺に一匹の仔猫があらわれた。ものめずらしさに皆は追いかけ廻してこれを捕え、さて東西両堂の争いになった。両堂互いにこの仔猫を、自分たちのペットにしようと思って争ったのである。
 それを見ていた南泉和尚は、忽ち仔猫の首をつかんで、草刈鎌を擬して、こう言った。
「大衆い得ば即ち救い得ん。道い得ずんば即ち斬却せん」
 衆の答はなかった。南泉和尚は仔猫を斬って捨てた。

三島由紀夫「金閣寺」第三章

 この後段に南泉の弟子、趙州が登場して(猫騒ぎのとき彼は留守にしていたのだ)、話に落ちを付けるのだけど(その落ちも意味が分からない代物なのだけど)、前段の「猫を斬る」という暴力行為のインパクトがあってこそのこの逸話だろうとは思う(頭に草履を載せるだけでは後世に伝わる逸話にはならなかったろう)。

 禅僧の暴力は、悟りを得させるための優しさから来るのだという。
 愛のムチ、だなんて、まったく昭和の価値観である。パワハラ以前に犯罪である。
 が、そこには確かに何かがあるようだ。無害で柔らかく暖かい優しい小さな生き物を理由なく無造作に片端から斬って捨てることでしか表現のできない、なんとも捉えがたいものが。
 意味不明のものをロジカルに説明しようとする三島由紀夫よりも、意味が分からないものを意味が分からないものとしてただ示すという村上春樹のほうが、誠意がある文章のように、僕には思える。

 …ちょっとGoogle先生に聞いてみた限りでは、南泉斬描とジョニー・ウォーカーを結び付けている文章が(意外にも!)見当たらなかったので、長々としているうえに結論もない与太話ではあるけれど、ここに書いておくことにする。