禅語の前後:喫茶去(きっさこ)
五百年ほど昔、伝説の茶人である千利休は、茶の湯の極意を聞かれたとき、「ただ湯をわかし茶をたてて飲むばかり」と応えたという。
さらに千年ほど時代を遡って、本場中国の伝説の禅僧である趙州は、仏教の極意を聞かれたとき、文脈ぶっちぎって「喫茶去(まぁ茶でもお上がりなさい)」、と返したという。
怖い。
お湯がわいたら茶をたてて飲んでただそれだけのことをするのが利休さんの仕事だったんなら、「オフィシャルには私が窓口だけど、アンオフィシャルな話があったら利休に相談してね」などと、豊臣の重臣が他所の武将に利休さんを紹介なんかするものですか。そもそも、天下人の秀吉が、わざわざ腹を切らせたりするものですか。
悟りのためなら自分の腕くらい平気で切り落とすような人たちがひしめいている古代中国の禅仏教のどまんなかで、「まぁ茶でも」って出てくるそのお茶には、いったいどれだけの意味が含まれてるんですか。京都のひとがぶぶづけ出してくる的な、何か深くて怖い意味があるに違いないわ。いや、よぅ知らんけど。
湯をわかし、茶をたてて、飲んだり飲ませたりする、その一連の行為にはどうやら、仏教の神髄に近しい何かがあるようである。
NHKの「100分 de 名著」が般若心境をとりあげてたとき、僕が習ってた裏千家の先生はそれを見て「あぁ、これ、茶道のことじゃないの」と得心したのだと言っておられた。僕はそこまで至っていないのであろう、ちょっとついていけなかったけど。
あるいは、それは別に茶でなくともよいのかもしれない。たとえ何であっても、髭剃りでもカクテルでもピンボール・ゲームでも、とことんまで追求していけば、政治だとか宗教だとか哲学だとかの領域にまで届くものがある、そういうものなのかもしれない。趙州や利休にとって、たまたまそれが茶だった、それだけなのかもしれない。
「ねえ、ジェイ。」と鼠はグラスを眺めたまま言った。「俺は二十五年生きてきて、何ひとつ身に着けなかったような気がするんだ。」
ジェイはしばらく何も言わずに、自分の指先を見ていた。それから少し肩をすぼめた。
「あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんなに月並みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。実施、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ。」
(村上春樹「1973年のピンボール」)
ピンボールの年も、今となっては遥かな昔の出来事である。いつのまにか僕も、鼠よりジェイのほうにずっと近い歳になってしまった。二千二十年代に生きる我々としては、喫茶去と言う代わりに、ハブ・ア・ナイス・ゲーム、と言うのも、いいかもしれない。
※画像はwikicommonsより。
https://commons.m.wikimedia.org/wiki/Category:Pinball_games?uselang=ja#/media/File%3AAlignement_de_flippers_(13916438111).jpg