禅語の前後:日日是好日(にちにちこれこうじつ)
禅の言葉というのは、本来なら言葉にできないものを言葉にして伝えようとする矛盾をあえて行うものなので、必然的に矛盾をはらんでいる。
「日日」は毎日、「好日」は良い日で、そのまま読むと”Everyday is a good day. ”という程度の意味になる。
「良い日」は「悪い日」があるからこその「良い日」だろう。もしも毎日が良い日であれば、それはもう普通の日であって、「良い日」ではなくなる。そう考えると、この言葉は絶対に成り立たない何かを表していることになる。
「絶対に成り立たないことがらについて考え続けること、それがゼンなのです」と、僕がまだ学生のとき、ドイツ人の教授に言われたことがあった。たしか彼女は、日本文化を専攻されていたのだったと思う。
教授には悪いのだけど、ほんとにそう? と、僕は直感的に反発してしまった。なにか、そういう禅の言葉というやつには、昔話の一休さんのような「とんち」が隠されていて、そこさえ掴めればポンっと答えが分かるものなんじゃなかろうかと、そんな風に僕には思えたのだった。
「楽しい日も苦しい日も、それを正面きって受け止めて味わい尽くすことができれば、それは良い日と言えるはずである」、そういう解釈もあるらしい。
「良い日とか悪い日とかを悩んだり願ったりすることそのものが誤りであり、ただ今この一瞬一日に全身全霊をかけることが大切なのだ」、そういう解釈もあるらしい。
どちらも、ちょっとアグレッシブな、ストイックな、体育会的な解釈ではある。
あらためてこの言葉に向き合って考えてみると、「とんち」のきいた解釈はなかなか出てこないけれど、もっとなんか能天気な解釈もできるような気はする。
「毎日がいい日だ、EVERYDAY IS A GOOD DAYだ、私がそう決めたんだ、だからそれでいいじゃないの」と、いくらかのカラ元気と諦めとを噛んで含めて、それでもふてぶてしくそう主張してはばからない、そんなふうでもよいのでないかという気はする。
ちょうど同名の映画に樹木希林が主演で出ていたけど、思えばそんなふうな解釈を載せるには、彼女の姿は適任のように思える。
あるいは、スペインには「優雅な生活が最高の復讐である」という言葉があるらしい。ニュアンスとしてはこれも、日日是好日に近い言葉かもしれない。