禅語の前後:大道透長安(たいどう ちょうあんに とおる)

 何か儀式的なことをしたほうがよいかと二人で話して、僕と彼女は互いの両親の顔合わせと結納とのために、ホテルの離れを借りて宴席を設けた。
 離れは茶室としても使える部屋で、「大道透長安」の掛け軸が用意してあった。ホテルの人が、門出を祝うような意味合いを込めてくれたのだろう。

 これは唐の時代の有名な禅僧、趙州じょうしゅうの逸話から来た言葉だという。「道とは何でしょうか」と若い僧に尋ねられた趙州は「道なら、うん、ほら、垣根の外にあるよ」と返した。
 若僧「いやその道じゃないです、大道について聞いているのです」
 趙州「大道は、長安の都に通じているよ(大道透長安)」

 ここで帝都長安とは禅のいわゆる「本分の家山」悟りの世界を意味し、したがって「大道、長安に透る」とは、着衣・喫飯・行住・坐臥など、すべてが悟りの世界に直結しているということである。さらにいえば、道なるものは何か特別に高尚幽玄なところにあるのではない、日常卑近なところにある、あたり前のことをあたり前にやる、それを離れて特別に道があるのではない、という意味である。
(芳賀幸四郎「禅語の茶掛 一行物」)

 僕たち一般人としては、べつに悟りを得たいとは思っていないけれど、「日常卑近なところにある、あたり前のことをあたり前にやる」ことの大切さは、なんとなく分かる。むかし中学生のとき、先生にも言われた。毎日ちゃんと食べて寝てる奴が一番つよいのだ。「ダンジョン飯」にも、そんなセリフがあったな。

 はてさて、僕と彼女の長安は、どこにあるだろう。長安まで、あとどれくらいまで来てるんだろう。あるいは知らぬ間に、ここはもう長安の都大路で、僕らはさらにその先へと向かってるんだろうか。