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禅語の前後:明歴々露堂々(めいれきれき ろどうどう)

「明らかにはっきりとあらわれていて、少しもかくすところがない」ということで…(中略)…仏教の極致は何か神秘的なもののように思われているが、実はそれは「明歴々めいれきれき露堂々ろどうどう」たるものだ、というのである。
(芳賀幸四郎「禅語の茶掛 一行物」)

 この言葉は、よく晴れた野っぱらに居るような気分にさせてくれる。
 何も隠されてはいない、それはそこにありのままにある。当たり前のようにそこにあるのに、そのことに気付かずに過ごしている素敵なことが、この世にどれほどあることだろう。

 いつだったか、よく晴れた行楽日和の平日の昼間、都内の客先に向かう僕を載せたタクシーの運転手さんが語っていた、「こんな日は『あぁもういいや運転手さん、こんな日に仕事なんてやってらんないや、このまま箱根まで行っちゃって』とかって誰か言ってくれないものかなぁ、ってね、思っちゃいますよ」。

 あるいは、うちの会社のあるオフィスビルの脇の、植え込みと雨避けとの微妙で絶妙なすきまスペースに、屈みこんで入り込んで楽しそうにしている散歩中の子ども(と、あきれ返っているその子の保護者)。そうね、そこに入り込めるものなのだというのは、思いつきもしなかったわ。楽しいよね。わしはもう、でかなりすぎて、屈みこんでもちょっと入られへんけど。

 直島や金沢で見られる、ジェームス・タレルの空だって、そうだ。考えてみれば、だれも空を隠したりはしていないし、いつだって外に出て上を向けばそれを見られるというのに、ああやって切り取られて見せられてようやく、僕たちは空というものがとても美しいものだと気付ける。そういうポイントから世界を眺めると、空が意外に青かったり、旬の花が咲いてたりする。

禅は言うだろう、御好みならば、今を盛りの椿の花を拝まれよと。何となればかくするところに、仏教の神々を拝んだり、浄水を注いだり、基督キリスト教の聖餐に列したりするほどの宗教があるからである。
(鈴木大拙「禅学入門」)