禅語の前後:不識(ふしき)
伝説的に有名な、達磨大師の自己紹介のひとこと。
達磨大師が西の国から中国にやってきたとき、仏教学者でもあった梁の武帝との間に、3つの問答があったという。ざっくり言うと、こんな感じだったらしい:
武帝「わたしが厚く保護する仏教には、何のメリットがある?」
達磨「いや、何のメリットもない(無功徳)。」
武帝「仏教の聖なる極意を知っているかい?」
達磨「そんなものは、どこにもない(廓然無聖)。」
武帝「わたしに対するそなたは、何者だ?」
達磨「知らない(不識)。」
これで達磨は、いじめでも誤魔化しでもなく、真心こめて禅の神髄を伝えようとしている、のだそうだ。
幕末から明治にかけての臨済宗きっての傑僧・洪川宗温が、この「不識」に対し「話し尽す山雲海月の情」と着語し、「達磨が深重な慈悲心から肚の底までまけ出して答えてござる」と評しているように、達磨はこの「不識」の二字で自己の真面目を露堂々と武帝にみせているのである。しかし単なる仏教学者にすぎなかった武帝には達磨の肚、その慈悲あふれる指示がわからなかった。
(芳賀幸四郎「禅語の茶掛 続 一行物)
いや、わからないよ、そりゃ…。
古代ギリシャのソクラテスは「無知の知」、「わたしは、わたしには知らないことがある、ということを知っている。知らないことを自覚している、という点においては、わたしは誰よりもすぐれている」というような意味合いのことを言ったらしい。
こうした自覚への機縁となったのは,〈ソクラテス以上の知者はいない〉というデルフォイの神託であった。彼はその意味を解明するために,世に知者と呼ばれている人たちを吟味して歩いた結果,彼らの方は〈何も知らないのに知っていると思い込んでいる〉のに対して,彼のみがみずからの無知を自覚している,すなわち〈無知の知〉という一点において相違していることに気づいた。そしてさらに,神託の真意はソクラテスに名を借りてすべての人間の無知を悟らせることにあると考えるに至った。
(平凡社「世界大百科事典」の「ソクラテス」…コトバンクより抜粋)
達磨の「不識」は、そういう意味合いでの「知らない」なのか? そう解釈すれば、いくらか意味合いは分かる気はするけれど…。
「何者だと訊かれても、自分自身が何者なのか知り尽している者がいるはずがない。そういう意味合いで、わたしはわたしが何者なのかを知らないと、たとえ相手が皇帝であっても、堂々と主張する。自分自身でさえも何者なのかを自分は知らない、それを自覚することからしか、真の知識の探求は生まれないのである」、そういうことを言いたいのなら、うん、ニュアンスとしては分かる。
けど、禅のひとたちが言う「不識」というのは、どうも、そういうことじゃないもののようだ。
言葉を尽くしても説明のしようがない何か、あえて言葉にするなら「お前は誰だ」「不識」というやりとりでしか言い表わしようのない何か…。
うん、正直、ぜんぜんわからない。
少なくとも、わからない、ということだけは、僕にもわかるようだ。