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祖父の軍歴と、戦後の南方抑留について

この記事について:

母の依頼で、母の父の軍歴を、厚生労働省から取り寄せた。
届いた軍歴(履歴原表の写し)は、A4用紙に1枚きりの簡素な内容だった。
書かれた用語やその時代背景を一通り調べたので、ここに記す。

年号は昭和で統一する。(たまたまだけど、現代の西暦と年号のイメージが近しいので、むしろこのほうが現代人からすると読み易いかと考えた。)
文中の『白抜き括弧内の太字』は、軍歴からの転記箇所を示す。
参考書籍・論文・サイト等は、末尾にまとめた。

18年、16歳:

彼は16歳で海軍に志願した。
彼にとって、志願は普通のことだったのかもしれない。実家は海とは縁の薄い四国山地の農家だけれど、兄は二人とも海軍に居たし、志願兵は優先して海軍学校に入れて勉強させてもくれる。現代日本の大学進学と同じような感覚だったのかもしれない。
(18年にはまだ、誰も彼もを徴兵して頭数をそろえるような無茶は、されてなかったようだ。)

8月10日付で、彼は『佐世保鎮守府』の水兵となった。「鎮守府」は海軍の主要拠点で、海軍の水兵は長崎県の佐世保・広島県の呉・京都府日本海側の舞鶴・神奈川県の横須賀、という4つの「鎮守府」のうちのどれかに所属するルールになっていた。

当時の写真によれば彼は相当の美男子だった、らしい。母からはそう聞いている。僕はその写真を見ていないので、何とも言えない。軍歴の書類には『相貌特徴:眉濃く頂に八の字形の創痕』という、端的な一文しか残っていない。

大本営発表によると日本軍は、同じ年の2月に東の島ガダルカナルから「転進」し、5月には北の島アッツの守備隊が「玉砕」していた。普通の言葉で言えば転進は「敗退」だし、玉砕は「全滅」だが、大本営は細かい言葉にもこだわりがあったらしい。4月には山本五十六海軍司令長官が南の島トラックの上空で戦死していたが、これについては大本営は何も発表しなかった。東京では海軍の若手将校たちが、密かに敗戦の覚悟をし始めていた。

彼が当時どの程度この状況を知っていたのかは、分からない。水兵の噂話として伝え聞いたところは、いくらか有っただろうけれど。

彼は『佐世保第二海兵団』で3ヶ月の訓練の後、11月15日付で『横須賀海軍通信学校』に配属され、『電測』という新技術を学ぶことになった。敵の船舶や航空機を遠方から探知できる測定器、今で言う「レーダー」である。彼は『第3期 普通科 電測術練習生』で、他の記録と照合すると、この第3期の同期は207名だったらしい。同時期の海軍志願兵は全体で年間3万名ほど居たらしいので、その内数で考えると、けっこう珍しい兵種だったことになる。なぜ彼がこの兵種なのかは、よく分からない。何か思い入れがあって彼自身が専攻を希望したのかもしれないし、入隊時の算術の試験で彼が好成績だったとか、何か選ばれる理由があったのかもしれない。

21号電探

写真は日本海軍の航空母艦<瑞鶴>の艦橋部。写真中央上部、艦橋の上にある四角い金網状の装備が、電測(レーダー)。写真下部にはセーラー服の水兵たちが、背を向けて写されている。

19年、17歳:

6月10日に彼は海軍学校を卒業し『電測術章を授与』されている。電測専門の学校が開設されたのは彼の卒業後になる19年9月なので、彼は早期に電測術を学んだ水兵のうちの一人だった、と言えるだろう。珍しい技能だから、これ以降も彼はその技能を使っていたんだろうとは思うけれど、そのあたりは軍歴の記載だけでは良く分からない。

彼が卒業する4日前、6月6日には、欧州でノルマンディー上陸作戦が行われていた。7月7日にはサイパン島が、8月10日にはグァム島が、8月25日には欧州パリが、連合国軍の手に渡った。

彼は6月17日に佐世保を出発し、8月25日にはベトナムの『カムラン』軍港に到着していた。どのような経路で進んだのかは分からないけれど、当時は既にこの海域を移動するだけでも命懸けだったはずだ。配属は『臨時第11特別根拠地隊』で、これは海軍所属の陸上部隊らしい。11月1日付で『上等兵』に昇進している。

彼が昇進する直前の10月21日から10月26日にかけて、フィリピンのレイテ沖で日米は史上最大の海戦を繰り広げた。艦隊同士が正面衝突するようなやりかたの海戦は、これが史上最後になるだろう、と言われている。
また、事実上この海戦で日本海軍は連合艦隊を失った、とも言われている。日本海軍は大逆転を期して、残された艦隊の大半にあたる63隻の軍艦を戦場へ投入し、戦艦<武蔵>を含めて34隻を失った。

が、当時の日本海軍は「相手のほうも相当の痛手だった筈だ」という評価をしていたらしい。南方は資源も不足なかったらしいので、現場の彼の周囲ではまだ、戦争をあきらめる雰囲気ではなかったかもしれない。

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写真は日本海軍の航空母艦<瑞鶴>、19年10月25日の沈没直前に撮影された写真。広い飛行甲板が、大きく傾いている。16年の真珠湾攻撃に参加した航空母艦6隻のうち、最後まで残っていたのが、この<瑞鶴>だった。

20年、18歳:

彼は4月28日に『第11警備隊』に配属され、5月1日付で『水兵長』に任命されている。たった半年での水兵長への昇級は、比較的早いようだ。彼が優秀だったからなのか、人手が不足していたからなのかは、よく分からない。おそらく、両方の要素が有ったんだろう。

同じ年の3月10日には東京大空襲、4月1日には米軍が沖縄へ上陸、4月7日には戦艦<大和>が九州沖で沈み、5月2日にはベルリンが陥落している。

6月15日、彼は『第十方面艦隊司令部』への配属を命ぜられ、翌6月16日にベトナム『カムラン』を離れてシンガポールに向かったようだ。軍歴の記載が混乱しているようで、シンガポール到着の日付は記録が無い。「艦隊司令部」と言うと格好がいいが、6月15日時点この第十方面艦隊で動ける軍艦は1隻、駆逐艦<神風>だけだった。

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写真は日本海軍の駆逐艦<神風>。船尾の旗の左手に、水兵たちが小さく見える。大正時代に建造された、どちらかというと旧式の駆逐艦だが、戦後にまで残る数少ない日本軍艦のひとつになった。

彼の軍歴には20年の日付のない行に一文、『シンガポールに於いて服務中』とある。当時シンガポール要塞では10万を超える日本兵が意気盛んに築城作業中で、英国艦隊がその奪還のため北上中だった。

日本南方軍の総司令官は、事前にポツダム宣言の受諾を知っていたようで、8月15日の玉音放送の直後から、整然と降伏準備を始めたという。記録によると英国の司令部も、8月11日には日本降伏の気配を察して、艦隊を呼び戻している。

彼の軍歴は、意外なことに、終戦の後にも続いている。同年9月1日付で、彼は『二等兵曹』に任命されている。これは末席ではあるが海軍士官の役職、一般企業であれば管理職にあたる。終戦後に士官に任命されてしまうというのは、なんというか、責任だけ多くなって給料の保証は無いという気の毒な「名ばかり管理職」というか、あまり他人事には思えない気もする。

終戦後にも彼の軍歴が続いているのは理由がある。南方に進駐した連合国軍は英国を中心に130万人、対する日本兵は70万人、日本兵が多すぎる。日本軍の将兵が大人しく降伏に応じてくれたまでは良かったのだけれど、もし全員を英国の捕虜にしてしまったら、衣食住や指揮命令など諸々を考えると到底その面倒を見切れない。英国は外交的な機転を利かせ、「彼らは捕虜ではなく降伏者であり、ゆえに日本軍は引き続き彼らについて責任を持つべし」ということにしてしまった。なので南方においては、終戦時に武装解除されたが、組織としての日本軍は解体されずに残り続けた。

21年、19歳:

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写真はユニオンジャックの旗の下で、英国による統治の復帰を祝う、終戦直後のシンガポール人民

終戦から1年が過ぎても、まだ彼は帰国できずにシンガポールに居た。

当初、英国は日本将兵たちを早期に帰国させようとしていた。財政的な負担もあって、早く帰国させたかったようだ。足りない船を米国から借り受けて、戦地からの日本将兵の帰国プロジェクトは急速に進んだ。記録によると、21年の9月までには、全体70万人いた南方の日本軍将兵のうち、60万人が帰国した。
が、彼は、残された10万人のほうに選ばれてしまったようだ。

英国は21年5月に方針を転換し、日本軍将兵のうち10万人程度は、すぐには帰国させず南方に残すべし、と言い始めた。3年にわたる日本の統治時代に現地の田畑が放置されたため南方全体で食糧難が生じている、また、戦災復興のためには現地の土木作業も必要である、これは日本軍に責任があることなのだから、日本軍の将兵たちには農業や土木などの労働に従事すべき義務がある…というのが、英国の言い訳だった。じっさいのところは、給料の要らない労働者として、英国植民地の復興に都合よく利用されていたようだ。

シンガポールに残留した彼が、どういった任務に就いていたかは、軍歴には記載が無い。たぶん、あまり愉快な目は見てなかったろう。食料は不充分、現地民からは石を投げられる、同じ日本軍のなかでも陸軍と海軍とは(相変わらず)仲が悪い、いつ帰れるのか分からないまま皆の士気が下がっている、等々、記録資料には楽しくない話題が散見される。

船を貸している米国は、こうした抑留処置に反対した。マッカーサーの公約の通り21年末までに全ての将兵を日本に帰すべき(そして米国に早く船を返すべき)だと主張したのだ。当時の日本の吉田首相もこれに同調し、日米でタッグを組んで、英国に対して早期帰国を促す活動を始めた。

運動の成果として、11月7日付で「日本人の労働時間は1日8時間・タバコは週に20本を支給・月に1回は日本にハガキを送れる」等々の待遇改善が行われたようだが、残された彼らがいつ帰れるのかは、まだ英国の思惑の中で、謎のままとなっていた。

22年、20歳:

この時期になって英国が、あの手この手で日米からの帰国を促す追求を誤魔化していたらしいことが、公開された機密文章から明らかになっている。マッカーサーも気を悪くしていたようで、英国の代表者に対して「このままだとロシア人が英国人に勝つことになろう」と言ったそうだ。ソ連は旧満州やシベリヤからの日本軍将兵の帰国を、前年の10月から開始していた。

彼の軍歴には1月27日の日付で『セレター 十方艦司』、2月5日の日付で『シンガポール日本海軍第10艦司(通信)』、日付の無い記載で『シンガポール 生存』、という記述がある。「セレター」はシンガポール北東部の軍港らしい。「十方艦司」は第十方面艦隊司令部だろう。「通信」というのは、司令部の通信部門での職務に就いていた、という意味だろうか、あるいは海軍通信学校の出身という意味だろうか? よく分からない。わざわざ「生存」と記載あるのは、戦後に役所が帰国者の名簿など作っていた際の覚え書きかもしれない。

5月3日付で彼の軍歴には『昭和二十二年政令第五十二号に依て廃官となる』と記載されている。この政令によって、彼は軍人ではなく「未復員者」という身分になった。ただ、これは日本の書類の上でのことなので、現地の様子は特に変わらなかったのでないかとは推測する。

7月15日、英国側はようやく、21年末までに日本人の帰国を完了させる、という公式の通達を示した。また9月30日、南方での日本人の労働に対して賃金を支払うべき、との見解を示した(ただし同時に、その支払は日本政府が負担すべきだ、とも言っている…。すごい、さすが大英帝国だ)。
彼がこの給料を受け取れたのかどうかは、よく分からない。ただ、6年以上の在職軍人に与えられる日本政府の『恩給』については、彼は在職年数の不足で『無資格』という扱いにされてしまったようだ。いっそもう少し長くシンガポールに居たら、恩給を貰えていたのかもしれない。

彼の軍歴の末尾には、帰国時の乗船記録が記してあった。『乗船名 大安丸』『乗船年月日 22.9.5』『乗船地 シンガポール』『上陸地 佐世保』『上陸年月日 22.9.18』。英国領になった南方からの帰国活動は、22年10月の出発が最終便だったそうなので、彼はほとんど最終便まで居残りさせられていたことになる。

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写真は、復員船(海外に残留した旧日本軍将兵の帰国専用船)として使われた「大安丸(たいあんまる)」。出典は引揚援護庁「引揚援護の記録」、AIによる色付けをこちらのサイトで実行。

おわりに:

けっきょく彼は、16歳の夏に志願し、18歳の夏に異国の港で敗戦を知り、20歳の秋になって帰国した、ということになる。

僕の知る彼は、飄々とした愉快なおじいちゃん、なのだけれど、その飄々さ・愉快さの幾分かは、この戦争で出来ていたのかもしれない。

参考文献:

■野中幾次郎ほか「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」

■大井篤「海上護衛戦」

■河村豊「旧日本海軍の電波兵器開発過程を事例とした第2次大戦期日本の科学技術動員に関する分析」https://researchmap.jp/read0111947/misc/22513672/attachment_file.pdf

■yaswara「海軍レーダー徒然草」
http://www1.odn.ne.jp/yaswara/

■増田弘「日本降伏後における南方軍の復員過程 : 1945年~1948年」
https://ci.nii.ac.jp/naid/120005556880

■石丸安蔵「日本海軍の予備員制度について―制度の沿革と運用―」
http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j19_1_7.pdf

以上。