禅語の前後:莫妄想(まくもうそう)
禅の言う「莫妄想」は「妄想するなかれ」という解釈をよくされるが、中国語の原意としては「妄想は無し」、ノー妄想、という表現のほうが近いようだ。
禅の言う「妄想」というのも、無駄な幻想というような通常の意味合いでの妄想とは異なる。
生と死・善と悪・美と醜・得と失・勝と負・悟と迷というように、物事を相対的にみて、一方を取り他方を捨てようと分別し、それに執着する念慮をすべて妄想というのである。簡単にいえば、迷える想念のことである。したがって、「莫妄想」とは、「相対的な見方に立って思いわずらうことなかれ」という意味である。
(芳賀幸四郎「禅語の茶掛 一行物」)
禅にとっては、分別は迷いであり妄想である、ノー妄想イコール、ノー分別だ、ということか。
文明の全否定だ。無分別の極みだ。実にロックンロールな主張である。
じっさいのところ、伝説の禅僧は大抵ロックンロールなようだけど。
鎌倉時代、二度目の元寇の折りに、北条時宗が禅僧に教えを乞うた時に言われたのがこの「莫妄想」の一言だったそうだ。四の五の言うてても始まらんやろ、どーんといかんかい、というふうな意味合いもあったんだろうか。
なんというか、洋の東西を問わず、こういうロックンロールで分別を捨てたところに価値を見出すのは人類の共通項のような気がする。たとえば竹やりで戦争を続けようとするような分別のなさ、その分別のなさをかえって愛でるような心意気、土壇場になって非科学的なものを選んでしまう性向が、僕たちの根っこのほうに確かに存在していて、「莫妄想」と言われて有難がっているのも、この同じ根っこのような気はする。
だから良いとか悪いとか、もっと科学的でロジカルでエビデンスベースであるべきだとか、そういうことじゃなくて、というかそういうことを言っても始まらなくて、もう僕らの根っこは植え替えようがなくこういうものなのだから、それはもう所与の大前提として諦めて、それを飲み込んでどうしていくかを考えなきゃいけないのだろうかな大人としては…などとも、思う。