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不定期サバティカル日記36 島津斉彬はなぜ進歩的な近代国家建設施策を実行できたか?

10月初旬の南西九州縦断旅行で、まず、鹿児島に入ったわけですが、桜島の次には、熊本市内の観光名所である、仙厳園に行きました。そのときの日記は以下です。

その日記では、

  • 「ノー勉」で訪問しちゃって、もったいなかったな。ということ

  • 後からでも良いから勉強しようと思って、「語られた歴史 島津斉彬」(←クリック数を知りたいので、アフィリエイトリンクになっています。嫌な方は別途ググってくださいな ^^;)という本を買ったよ。ということ

ことを書いてます。

先日、この本を読み終わったので、「島津斉彬はなぜ進歩的な近代国家建設施策を実行できたか?」について私なりにまとめてみたいと思います。個人の分析(というか、所感)なので、間違っているところもあると思います。
内容を信じるというよりは、へー。と思っていただければ良いかと。

サラブレッドだったから

いきなり第一章にでてくる節のタイトルですが、「斉彬は家康の子孫」、「幕末の有名諸侯はほとんどが親戚」。なるほど、初めて知りました。薩摩藩の強力外様大名かと思っていましたが、そうだったんですね。

今よりももっと、姻戚やコネが大事だった時代だと思うので、そうしたコネをつかって、いろいろな情報が入ってきたのだろうな、それが、「日本を強くしなくてはいけない」という思いにつながった面があるんじゃないかと思いました。

鹿児島を領有していたから

鹿児島は日本の主要4島のなかでは最南端に位置します。薩摩藩は琉球を支配していましたし、当時唯一の外国との窓口である長崎の出島ともそう遠くない位置にあります。
江戸や大阪よりは、海外情勢について、断然、ビビッドな情報が入ってきたのではないかと思います。実際に本の中でも、薩摩藩士に蘭学を学ばせたり、蘭学者と交流したということも書いてあります。その情報が、近代国家を急ぎ作らなければいけないという思いを促進した面があるんじゃないかと思いました。

外様大名だったから

日本を取り巻く国際情勢がきな臭くなってきても、そして、その情報を得ていたとしても、幕府の中枢にいると、かえって動きにくい面があると思います。なにしろ、格式と前例が重要視される時代だったようですので。
そこで、外様でいるということは、江戸からの地理的な面でも、日本国運営の責任上の面でも少し遠かった。それが、比較的自由に動けた理由なんじゃないかな。とも思いました。

この本は読み物としても面白かったです。斉彬のスーパーマンぶり(強烈なビジョナリーであること、しきたりにとらわれない柔軟さがあることに加え、普通の殿様はしない、自分で経理の現場に出ていく点や、人の心の機微を理解する点など)がとてもよく分かります。

ではまた。

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