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指導するときに気を付けていること

いきなりだが、あなたは「啐啄同時」(そったくどうじ)という言葉をご存じだろうか。これは鳥の雛が卵から産まれ出ようとするときに、卵の中から殻をつつく。そして、親鳥がそれを聞いて卵の外側から殻をつつく。そして、子どもの雛鳥と親鳥が、つまり、内側と外側で卵の殻を同時につついたときに、殻が破れ雛が産まれるという様子を言葉にしたものだ。この様子から、ひいては、互いが共鳴してタイミングを合わせ、協同したときに何か新しい事を成し遂げられるという意味だ。

私がこの言葉に出会ったのは、海外でボランティアとして途上国で野球の指導を行おうとまさに研修を受けていたときだった。特に、国や文化、言葉も食事も生活習慣も、そして顔さえも、何もかも違う中で、はじめて異文化の中で野球の指導を行うということで、私もベストを尽くすべくあらゆる準備をして臨みたかったので、この言葉というのは私の心にすごく響いた。

そのときの説明で、卵の殻というのは外敵から身を守るため硬いので、子どもからの突き(働きかけ)だけでは割れることはなく、逆に、親から殻をつついただけでも割れることはないといっていたのを覚えている。つまり、2人でタイミングを合わせ、「同時」に行うことで、最大限の力が発揮され、この時にはじめてあれだけ硬い卵の殻を割ることができるという。

この啐啄同時を教えてくれた方は、特にこれを指導の現場に置き換えて話してくれた。特に私たちはボランティアとして指導する立場、つまり親鳥の立場で、異国の地で指導することになる。日本の代表という気負いもあり、多くの方は、たくさん教えたいという思いから、時には一方的な指導となって失敗してしまうケースがこれまでにもたくさんあったそうだ。
おそらくそこで、日本の代表としていくことには変わりはないが、そこまで気負わないで欲しいという意味合いも込めて、その方はこの言葉を引き合いに出されたのかもしれない。

私はこの言葉を胸に秘め、いざ現地に突入することになるのだが、別の意味において、「啐啄同時」というのを知ることになり、それ以来、自分の戒めとして、この言葉は今でも自分の中で大切となっている。

当時は私も若かったこともあり、ましてや日本の代表で途上国に「教えている」という感覚がたっぷりあって、どこか自分の中で傲慢さというのが出ていた。言葉が完璧に伝わらない中で、自分が伝えたいことが本当に届いているのだろうか、外国人としてバカにされているのではないだろうか、このやり方が現地とマッチしているのだろうか、など、飛躍する選手や逆に伸び悩んでいる選手を見るなかで、自分の中でいろいろな葛藤があった。

本来、教える方も学ぶ方にも優劣はなく、相乗効果でお互いが発展するのがしかるべく姿だと思う。それが、当時の私は今思うと本当に恥ずべき事だが、誠に勝手ながら、教えるから偉いだとか上だとかといった、そういった錯覚や勘違いをしたまま、彼らに接してしまっていた。それが徐々に彼らとの間に大きな壁を作り出してしまっていたのだ。当たり前である。

今思うと、ものすごく恐ろしいことをしていた。私はそんなに大した人でもなければ、人格的に優れているわけでもない。そんな人がとんでもない錯覚をしてしまっていたのだ。大した人間でないがゆえ、少しでも油断してしまうと、勘違いが始まってしまう。私は、この経験を戒めに、自分自身が一方的になっていないか、啐啄同時になっているのかどうか、厳しくチェックするようになった。

よく考えると、私は教えていたようで現地の人から教えられていたことの方がたくさんある。だからこそ、外国で大きな犯罪に遭うこともなく、無事に帰国することもできたし、日本とは違う彼らの文化や生活習慣に触れることで、自分の人生の経験に幅ができた。

今は子どもたちのコーチとして、小学生の野球の指導にあたっている。この経験があるからこそ、今私は選手たちと一緒に汗を流して、一緒に学ばせてもらっている。本当に恥ずかしい経験をしてしまったが、この私自身の経験と啐啄同時という言葉に感謝している。

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