吉原住んでみたルポ。樋口一葉『たけくらべ』をcalude3で現代語訳。

claude3現代語訳して
廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火ともしびうつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來ゆきゝにはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前だいおんじまへと名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、三嶋神社みしまさまの角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦いへもなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形なりに紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田樂でんがくみるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日に仕舞ふ手當こと/″\しく、

現代語訳:
大門の向こうには柳が見渡す限り茂っているが、お化粧直しの溝にさえ灯りが映る立派な三階建ての騒がしい家は、手に取るように見える。夜通し馬車の行き交う様子から、かつての隆盛をうらやむ。大音寺前といった名前は仏臭いが、住む人は「陽気な町だ」と言っている。三嶋神社の角を曲がったところに、大きな建物ではなく、屋根の伸びた長屋が10軒、20軒と立ち並んでいる。商売は盛んではないが、半開きの雨戸の外では、不思議な形の色とりどりの折り紙人形が干されている様子が目を引く。一軒や二軒ではなく、朝は干し、夕方は片付ける手際の良さだ。


一家内これにかゝりて夫れは何ぞと問ふに、知らずや霜月酉とりの日例の神社に欲深樣のかつぎ給ふ是れぞ熊手の下ごしらへといふ、正月門松とりすつるよりかゝりて、一年うち通しの夫れは誠の商賣人、片手わざにも夏より手足を色どりて、新年着はるぎの支度もこれをば當てぞかし、南無や大鳥大明神、買ふ人にさへ大福をあたへ給へば製造もとの我等萬倍の利益をと人ごとに言ふめれど、さりとは思ひのほかなるもの、此あたりに大長者のうわさも聞かざりき、住む人の多くは廓者くるわものにて良人は小格子の何とやら、下足札そろへてがらんがらんの音もいそがしや夕暮より羽織引かけて立出れば、うしろに切火打かくる女房の顏もこれが見納めか十人ぎりの側杖無理情死しんぢうのしそこね、恨みはかゝる身のはて危ふく、すはと言はゞ命がけの勤めに遊山ゆさんらしく見ゆるもをかし、

現代語訳:
一家が商売にかかわっていると聞かされた。「霜月酉の市の神社で欲深いかつぎ(祭神)に奉納するための熊手の下準備なのだ」と言われた。正月の門松を下ろすようにこの商売に関わり、一年中それが本業の商人なのだ。夏からその準備に余念がなく、新年の着物の仕度もこれに頼っている。「南無大鳥大明神、買う人にも大福を授けてくれるから、我々製造者の利益は何万倍にも」と言っているが、実際にはそれほど儲けはない様子だ。この辺りに大金持ちの噂も聞かない。住む人の多くは遊女で、夫はお細工者らしい。夕方になると羽織を羽織って出かけていく。妻は後ろから火打ち箸を投げつける。10人に1人は傍系の無理心中で恨みつらみがたまり、命がけの仕事に思えてくる。


娘は大籬おほまがきの下新造したしんぞとやら、七軒の何屋が客廻しとやら、提燈かんばんさげてちよこちよこ走りの修業、卒業して何にかなる、とかくは檜舞臺と見たつるもをかしからずや、垢ぬけのせし三十あまりの年増、小ざつぱりとせし唐棧ぞろひに紺足袋はきて、雪駄ちやら/\忙がしげに横抱きの小包はとはでもしるし、茶屋が棧橋とんと沙汰して、廻り遠や此處からあげまする、誂へ物の仕事やさんと此あたりには言ふぞかし、一體の風俗よそと變りて、女子おなごの後帶きちんとせし人少なく、がらを好みて巾廣の卷帶、年増はまだよし、十五六の小癪なるが酸漿ほゝづきふくんで此姿なりはと目をふさぐ人もあるべし、所がら是非もなや、昨日河岸店に何紫の源氏名耳に殘れど、けふは地廻りの吉と手馴れぬ燒鳥の夜店を出して、身代たゝき骨になれば再び古巣への内儀かみさま姿、どこやら素人よりは見よげに覺えて、これに染まらぬ子供もなし、秋は九月仁和賀にわかの頃の大路を見給へ、さりとは宜くも學びし露八ろはちが物眞似、榮喜えいきが處しよ作、孟子の母やおどろかん上達の速やかさ、うまいと褒められて今宵も一廻りと生意氣は七つ八つよりつのりて、やがては肩に置手ぬぐひ、鼻歌のそゝり節、十五の少年がませかた恐ろし、學校の唱歌にも_ぎつちよんちよん_と拍子を取りて、運動會に木やり音頭もなしかねまじき風情、さらでも教育はむづかしきに教師の苦心さこそと思はるゝ入谷いりやぢかくに育英舍とて、私立なれども生徒の數は千人近く、狹き校舍に目白押の窮屈さも教師が人望いよ/\あらはれて、唯學校と一ト口にて此あたりには呑込みのつくほど成るがあり、通ふ子供の數々に或は火消鳶人足、おとつさんは刎橋はねばしの番屋に居るよと習はずして知る其道のかしこさ、梯子のりのまねびにアレ忍びがへしを折りましたと訴へのつべこべ、三百といふ代言の子もあるべし、お前の父さんは馬だねへと言はれて、名のりや愁つらき子心にも顏あからめるしほらしさ、出入りの貸座敷いへの祕藏息子寮住居に華族さまを氣取りて、ふさ付き帽子面もちゆたかに洋服かる/″\と花々敷を、坊ちやん坊ちやんとて此子の追從するもをかし、多くの中に龍華りうげ寺[#「龍華りうげ寺」は底本では「龍華寺りうじ」]の信如しんによとて、千筋ちすぢとなづる黒髮も今いく歳とせのさかりにか、やがては墨染にかへぬべき袖の色、發心ほつしんは腹からか、坊は親ゆづりの勉強ものあり、性來をとなしきを友達いぶせく思ひて、さま/″\の惡戲をしかけ、猫の死骸を繩にくゝりてお役目なれば引導いんだうをたのみますと投げつけし事も有りしが、それは昔、今は校内一の人とて假にも侮あなどりての處業はなかりき、歳は十五、並背なみぜいにていが栗の頭髮つむりも思ひなしか俗とは變りて、藤本信如ふぢもとのぶゆきと訓よみにてすませど、何處やら釋しやくといひたげの素振なり。

現代語訳:

大門の向こうには柳が見渡す限り茂っているが、お化粧直しの溝にさえ灯りが映る立派な三階建ての騒がしい家は、手に取るように見える。夜通し馬車の行き交う様子から、かつての隆盛をうらやむ。大音寺前といった名前は仏臭いが、住む人は「陽気な町だ」と言っている。三嶋神社の角を曲がったところに、大きな建物ではなく、屋根の伸びた長屋が10軒、20軒と立ち並んでいる。商売は盛んではないが、半開きの雨戸の外では、不思議な形の色とりどりの折り紙人形が干されている様子が目を引く。一軒や二軒ではなく、朝は干し、夕方は片付ける手際の良さだ。

一家が商売にかかわっていると聞かされた。「霜月酉の市の神社で欲深いかつぎ(祭神)に奉納するための熊手の下準備なのだ」と言われた。正月の門松を下ろすようにこの商売に関わり、一年中それが本業の商人なのだ。夏からその準備に余念がなく、新年の着物の仕度もこれに頼っている。「南無大鳥大明神、買う人にも大福を授けてくれるから、我々製造者の利益は何万倍にも」と言っているが、実際にはそれほど儲けはない様子だ。この辺りに大金持ちの噂も聞かない。住む人の多くは遊女で、夫はお細工者らしい。夕方になると羽織を羽織って出かけていく。妻は後ろから火打ち箸を投げつける。10人に1人は傍系の無理心中で恨みつらみがたまり、命がけの仕事に思えてくる。

娘は大筋の下で新造や客引きの修業をしている。卒業すれば、恐らく芸者になるのだろう。30歳前後の粉をぬった年増女性が、唐紺の足袋を履き、忙しげに小包を抱えている。茶屋の差し込み営業をし、この界隈で「誂え物の仕事をする」と言っている。この界隈では、女性の後陰で拵えた者が少なく、幅広い帯を好む風潮がある。10代の娘が酸っぱい味を含んだ化粧をしているので、目をそむける人もいるだろう。しかし、これも日常の風俗である。

河岸の店で聞いた紫の源氏名は耳に残るが、今日は初めての焼き鳥屋台を出している。女中は骨身にならないと、昔の身分に戻ることになる。素人よりは少し覚えたような感じで、子供でさえその世界に染まっている。9月の仁和賀の大路を懐かしむ。これは学んだ者の上達の早さで、孟子の母でさえ驚くことだろう。「上手だ」と褒められ、夜な夜な回る気持ちは年々つのる。やがては鼻歌を歌いながら、15歳の少年の行く手に怖れを抱く。学校の唱歌の拍子にも合わせて、運動会の掛け声のようだ。教師の苦労が偲ばれる。

入谷に育英舎という私立校があり、生徒数は1000人近くいる。狭い校舎は窮屈だが、教師の人望があり、この辺では「学校」の一言で尊敬されている存在だ。通学児童の中には、消防隊の使い走りや見張り番の子もいる。三百人もの子がいるという。「お前の父さんは馬だね」と言われ、子供ながらに恥じ入る心情がある。立派な貸し間に住む華族風の坊ちゃんに、多くの子が従う様子が見られる。

その中に龍華寺の信如という者がいた。しっとりとした黒髮の発心した坊主で、勉強家である。ふとした惡戯で、猫の死体を「引導を願います」と投げつけたこともあるが、それは昔の話で、今は校内一の人気者である。年は15歳、並の背丈で、へその緒の毛の生えた頭の、俗人とは違う素振りがある。「藤本信如」と訓読みにされ、何処からか出家した由緒があると見られていた。



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