不確実性の時代の教育

不確実な時代の教育

ポイントは二つ。

1.教育から学びへ。

2.正確さ、そして分析手法から、大ざっぱさ、そして直観へ。

3.グローバリズムの時代、すなわち流動性が高く、異なる価値観にさらされる時代には、根元を求める精神の運動が起こる。

 教育というのは、受け身のもので、学びというのは、主体的なもの。そもそも教育というのは、正確な答えがあるという前提。普遍的で正確な答えを、全員に教育して、その教育のもと、国家としての秩序維持、方向性などを定め、一丸となってそれに向かっていく。つまり近代国家と教育というのは、切って切り離せないもの。その前提として、この答(法則)えに従えば、豊かになり、国家間競争に勝てるという信念があったし、実際に、それで通用した。だから、広い国土の地方それぞれの特性に関係なく、同じ内容の教育が行なわれ、同一の基準で評価が決定され、その評価で上位のものがエリートになり、その同一の価値観のお目付役になった。

 しかし、不確実な時代において、全員が共有すべき正しい答えというものがなくなった。仮にあったとしても、短期間でしか通用しない答えということになった。変化の激しい時代に、全員に統一して従わせる正しい答を次々と作り出すことは難しくなった。その結果、教育がかなり変化していく時代から遅れる状態になった。時代から取り残された内容の教育を受け身で受け取って、そこに依存したり執着すると、時代のなかで力を発揮できなくなる。自らが時代の変化を敏感に読み取りながら、主体的に学び取っていくことができるかどうかが、人生を豊かにするかどうかの分かれ道になった。そして、能動的に学ぼうとすれば、昔と比べてとてつもなく簡単に様々な情報に触れることができる時代になった。

 しかし、情報を選び取って自らが学んでいくためには、自分の中にしっかりとした軸が必要になる。その軸をどのようにして形成していくかが鍵になる。

 そこで二つ目のテーマ、正確さと分析から大雑把さと直観の時代へ

これはビッグデータに象徴される。

LSSTlラージ、シノプティック、サーベイ 望遠鏡というのがある。

膨大な情報が整うと、それをもとに新たなひらめきが得られる。部分を分析してそのメカニズムを知るのではなく、全体を見渡して、各部分の相関から、ひらめきを得て、全体のメカニズムを知るという時代になってきている。分析力よりも、直感力、掌握力、相互連携力という柔軟な思考の方が重要になる。

しかし直観というのは、気まぐれなものではない。たとえばニュートンは、リンゴが木から落ちるのを見て重力がひらめいた。日頃何も考えていない人は、そういうわけにはいかない。直観というのは、日頃、自分の頭でしっかりと考えてこそ、眼の前の現実からひらめきを得る力のことを云う。

部分よりも全体性が重要な時代の考える力を身につけるための学びとは何か。

緻密さを犠牲にしてでも大雑把に、ジャンルを超えて色々なものを自分の中に取り入れていくということが大事。歴史も科学も芸術も文学も政治も経済も宗教も、個別の専門性は弱くても、だいたいのことがわかっているという状態にしていくことが大事。

三つ目に、グローバルの時代には、根元を求める精神の運動が起きているということ。

歴史上、明確なのは古代ギリシャ哲学が生まれた時、最初の哲学者タレスは、イオニアの商人で、エジプトとかトルコなど様々な地域を旅していた。時代はまさに、地中海世界のグローバル化の時代だった。ユダヤ教もそこから生まれた。中国においては春秋時代に、孔子、老子が現れ、戦国時代に荘子、孟子が現れる。そしてヨーロッパルネッサンス。ノルマン人、十字軍、ペスト、ロマネスク巡礼によるヨーロッパ国内の流動化、新しい価値観の流入、その混乱が背景にある。

日本でいえば、漢字が急速に入ってきた8世紀〜、ひらかなが生み出される。

根元をしっかりと定めてから、応用技術が急速に発展する。

データはすでにそこにある。

それを上手に活用できる人が、企業でも力を発揮できるし、個人でもビジネスができる。

大企業が苦しくなっているが、大企業を苦しくさせている原因を利用して

個人が仕事をできる。ますます大企業は苦しくなる。





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