小さな映画のようで、実は深遠なる映画。「丘の上の本屋さん」
昨日、2023年に公開された「丘の上の本屋さん」というイタリア映画を観た。ユニセフ共同製作で、監督・脚本は、クラウディオ・ロッシ・マッシミという無名の人だが、小品ながら、とても深みのある良作だった。
舞台はトスカーナの小さな村の書店。大がかりな状況設定は何もないが、トスカーナの美しい田園風景と、書棚に並べられた本のタイトルが時空を広げる。シンプルな設定でも、これだけ奥行きのある世界が描けるのだと感心した。
主人公は、余命わずかな老人のリベロで、古書店の主。リベロは「自由」という意味だ。この古書店にブルキナファソからの移民の美しい少年エシエンが通うようになり、「リベロ」っておかしな名だなあと言う知的好奇心旺盛なエシエンに、リベロは、一冊ずつ本を貸し出して、読み終えたら感想を聞く。
その感想は、少年とはいえ、最初のうちは功利的、効率優先の俗社会の影響を受けているもので、それに対してリベロは、本質的なものの見方や考え方などを少しずつ伝えていく。
リベロからエシエンに渡される本は、ミッキーマウスの漫画本から始まるが、『ピノキオの冒険』、『イソップ寓話集』、『星の王子さま』、『白鯨』、『シュバイツァー自伝』『ドン・キホーテ』『ロビンソン・クルーソー』と、段階を踏んで、圧倒的な深まり方をしていく。
そして、リベロは亡くなる直前、「これは貸すんじゃなくて、君にあげる。とても大事な本だから」と、一冊の本を手渡す。
この本のことはネタバレになってしまうので伏せるが、ブルキナファソからの移民であるエシエンにとっては、これからの人生においても、特に大事になってくるものだ。
先進国の人たちは、空気のように当たり前のものと思って、その価値を考えることもないが、そうでない状況に置かれている人が、現時点においても世界中に無数に存在している。
エシエンの母国ブルキナファソは、西アフリカの小国で世界最貧国の一つ。1960年にオートボルタ共和国としてフランスから独立したものの、サハラ砂漠南西の内陸に位置する苛烈な気候風土のなかでの農業が産業の中心だが、旱魃、飢餓、そして役人の腐敗にさらされ続け、治安も悪く、政情も安定せず幾度となくクーデターが繰り返されてきた。
1983年の軍事クーデター以降、社会主義経済体制となり、全国的な識字キャンペーン、農民への土地の再分配、鉄道と道路の建設、女性器切除や強制結婚と一夫多妻制の非合法化など、社会経済改革に着手し、国名が、現在のブルキナファソとなった。ブルキナはモシ語で「上へ向かう」、ファソはジュラ語で「祖国」の意味。
しかし、その後も、アルカイーダ系などのイスラム武装勢力が活動を活発化させて、国内の情勢は悪化の一途を辿り、2023年2月末時点で約200万人が国内避難民としての生活を余儀なくされている。
それでも2200万人の国民の半分が18歳未満という極めて若い国であり、子供たちが、どう育っていくかによって、国の将来は、大きく変わっていく。
ブルキナファソは、かつてモシ王国のあったところで、文化人類学者の川田順造さんが、無文字社会のモシ族と生活をともにしながら、『曠野から』などの著書によって、文字化された文明世界が失ったものを浮かび上がらせた。
言葉や音楽は、私たちが当たり前としている西洋的概念だけでは律しきれないことを、川田さんは、丹念なフィールドワークによって実証した。
現在の書店に並ぶ本の大半が、西欧合理主義の影響下に置かれた思考感性に寄り添ったものだが、古書店主のリベロがエシエンに貸し出す本の一覧に、この映画を作ったクラウディオ・ロッシ・マッシミの内実の深さが反映されている。
貸し出された最初の書物であるピノキオの冒険は、自由をめぐる冒険であり、最初、ピノキオが獲得した束縛からの解放は、自分の欲望の肥大化に移行しただけであり、その欲望につけこまれて騙されて数々の試練を受け、真の意味で自由からは遠い。
そして、社会において強欲なのは、文明社会のなかで自らを優位な立場にしようと狡猾なことばかりを考える大人たちであり、そうした社会に染まらずに、自分をコントロールして、自己犠牲的な精神を発揮するまでにピノキオは成長していく。
次にリベロがエシエンに貸し出す「イソップ寓話集』について、リベロは、この古代に書かれた書物の作者は、きっとエシエンと同じアフリカの人だと言う。
イソップ寓話集は、私たちも子供の頃に読んで、「狼と少年」とか、旅人のコートを脱がすために太陽と風が競い合う話など、大人になっても明確に内容を覚えている人生訓を伝えるものだが、これらの物語はとても古く、古代ギリシャ時代に、広く一般大衆に広まっていたとされる。もともとは、民衆に寓話を語り聞かせるだけのもので、文字になっていなかったと言われている。
リベロがエシエンに対して、作者はきっとエシエンと同じアフリカの人だろうと言った理由は、詳しくはわからないが、この寓話集で示される智慧が、機械文明社会の功利主義的価値観にそった処世訓ではなく、自然の摂理に軸足が置かれた教訓だからだろうか。
そして、次にエシエンが読んだ本は『星の王子さま』。遠い星からやってきた王子さまが、旅の途中で観た世界の住人は、まさに現代文明に毒された醜くて滑稽な大人の姿であり、地球の砂漠にやってきた王子は、キツネと出会い、「かけがえのないものとは何か」、「大切なものは、目に見えない」ということを学ぶ。
そして次にエシエンに貸し出されたのが大著「白鯨」。何度も映画になっているので多くの人が知っているが、その大半の人が読み切ってはいない世界十大小説の一つ。
私が一緒に仕事をした作家のなかで最も異能の人、丸山健二さんは、小説は「白鯨」だけがあればいいと言い切っていた。
丸山さんは、23歳の時、『夏の流れ』で芥川賞を受賞した。この受賞で出版業界からもてはやされた丸山さんだが、編集者が接待経費を使って若い彼を銀座のバーに連れていくのを醒めた目で観察し、馬鹿馬鹿しい業界だと背中を向け、東京を去って生まれ故郷の信州に移住してしまった。25歳の時だ。一般的な人なら、有頂天になってもおかしくはなく、東京の世俗世界にどっぷりと浸ってしまうだろう。
そんな丸山さんは、信州では、自分の庭に原種も含めたバラ園を作り、その手入れに大半の時間を費やし、1日に数行だけ小説を書き、それを毎日繰り返して1年で一冊の長編小説を発行するということを数十年にわたって継続していた。
そして丸山さんは、他の小説家が書いた本は、いっさい読まなかった。唯一、『白鯨』だけは何度も読み返した。文章のトレーニングとしては、マルグリット・デュラスの「アンデスマ氏の午後」の文体を身体に馴染むまで繰り返し書き写せばいいと言っていた。
丸山健二さんが、正真正銘の小説と認める『白鯨』は、船長のエイハブの鯨に対する復讐の物語であるが、白鯨は、大自然の力を象徴しており、その自然を制圧してコントロールできると信じ込んでいる文明社会の人間の狂気を、描き出していると考えられる。
だから、この物語の主人公のエイハブ船長は、旧約聖書のイスラエル王であるアハブ王の英語読みの名を当てられている。
アハブ王は、経済力と軍事力を増大させ、周辺諸国との交流や同盟を通じて国力を増大させた王だが、一方では、国内に偶像崇拝を広める原因を作り、旧約聖書では「北王国の歴代の王の中でも類を見ないほどの暴君」として扱われている。
そして、白鯨の物語で唯一の生き残りであるイシュメールは、物語の語り手でもあり、物語の冒頭の台詞として”Call me Ishmael.とあることから、この名に、物語の真意が隠されている。
イシュメールというのは、ユダヤ教にとっても最も重要な人物であるアブラハムの最初の子であるが、正妻の子ではなく奴隷の女性の子であり、正妻の仕打ちから逃れるため、奴隷の女性が砂漠に逃げて産んだ子である。そのため、イシュメールというのは、追放者、放浪者、遺産を絶たれた者、という意味が含まれている。
大自然の力に打ち勝とうとする文明社会の狂気じみた有様を、生き残りとして伝えているのが、『白鯨』の中のイシュメール=追放者、放浪者なのだ。
この『白鯨』の後、リベロがエシエンに貸し出すのが、アフリカの住民の医療に生涯をささげ、密林の聖者とされるシュバイツァーの自伝。シュバイツァーの活動は、彼の哲学に支えられており、それは、生命への畏敬。生命あるものすべてには、生きようとする意志があり、すべての人が、自己の生きようとする意志を大切にすると同時に、生きようとしている他の生命をも尊重しなければならないという哲学。リベロがエシエンに伝えたかったのはこのことだろう。
そして、その次の『ドン・キホーテ』となると、すでに読書好きになっているエシエンに対して、深い意味で警鐘を与えている。
騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別がつかなくなったドン・キホーテの狂気は、文明社会の中の頭でっかちの知識人にも当てはまるが、もっとも深刻なのが、発展途上国における革命のリーダー達のような知的エリートである。カンボジアのクメール・ルージュの指導者であったポルポトも、フランス留学中に共産主義思想にのめりこんだ人物であるが、これらの知的エリートは、現実と理想のギャップのなかで性急なる変化と結果を求めて、自らを正義とみなし、凄まじい暴力を平然と繰り返していた。
肉体派ではなく、読書好きのインテリの信じる正義の方が頑固で柔軟性に欠けて、自らの理想や計画性に反する者に対して、容赦のない暴力をくわえるということが多かった。
そして、その次にエシエンが読む『ロビンソン・クルーソー』は、社会での成功を求めるクルーソーが、農園の働き手となる奴隷を求めて航海に出て、難破し、ひとりで無人島に漂着し、28年間、サバイバル生活を送る物語だが、彼は、島での暮らしに順応し、無人島にイギリスの船がやってきた時も、故郷への帰還をためらう。
野生状態に置かれた状況でのサバイバル生活と、文明社会の弱肉強食世界のなかでのサバイバル生活。どちらが、より人間らしいのか、そして生命の摂理にそっていることなのか。そうしたことを深く考えられる知性を備えた人物になって欲しいというリベロの思いが、この本の選択にこもっている。
こうして見ると、リベロがエシエンに読ませるための本の選択は、この映画の脚本と監督をつとめたクラウディオ・ロッシ・マッシミの選択であり、その選択には、彼の文明社会に対する問題意識の高さと、知性の深さが反映されている。
そして、彼の問題意識の高さや知性の深さと、精神の豊かさが凝縮していると感じさせられたのが、映画の中に挿入されたナーズム・ヒクメットの詩だ。
書店にふらりと立ち寄った男性が、書棚の一冊に手を伸ばし、「偉大な詩人だ」とつぶやくと、リベロが、「波瀾の人生を送りました」、「反ナチ、反フランコ活動で、懲役28年の刑です」と答える。そして男性が、「彼は国を追われた、アルメニア人虐殺を公然と非難したからだ」と続け、ヒクメットの詩の一部を、読み上げる。
“一番美しい海はまだ航海していない海” “一番美しい子供はまだ成長前の子供” “一番美しい日々はまだ過ごしていない日々” と。
映画の中で読まれる詩は、日本語クレジットからしかわからなくて、原語のイタリア語がどうなっているのか知らないが、引用先は、ヒクメットの「本当の旅」という詩だと思われる。
「本当の旅」は、シンプルな言葉で書かれた詩だが、それゆえに、翻訳において、どの日本語を選ぶかによってニュアンスも異なってくる。私なりに言葉を解釈し選択したのが次の訳だ。
本当の旅
最も崇高な詩はまだ書かれなかった.
最も美しい歌はまだ歌われなかった.
最も素敵な日々はまだ経験していない日々
最も広い海はまだ航海されなかったし
最も長く続いている旅はまだ終わっていなかった.
不朽の踊りはまだ踊られなかったし
最も光る星はまだ発見されていなかった
何をするべきかこれ以上は仮定できない時
その時はじめて真の何かができる
どこへ行くべきかこれ以上は思い至らない時
その時がはじめて本当の旅の開始だ。
ナジーム・ヒクメットは、トルコの国民的詩人だが、原爆で亡くなった日本の少女のことを詩にして、その詩の日本語訳に外山雄三が作曲、坂本龍一が編曲し、元ちとせが歌った「死んだ少女」が、よく知られている。
ヒクメットは、体制の外側から体制を批判するだけのインテリではなく、身をもって現場で闘い、弾圧され、囚えられ、長期にわたって獄中生活を送った。トルコ政府は、ヒクメットの作品を発禁処分とするものの、彼は、獄中でも詩作に専念した。
そして、世界各国にヒクメットの釈放運動が広がり、トルコの知識人たちも彼の釈放を求めて広範なキャンペーンを張り、ヒクメットもハンガーストライキを行い、ついに、総恩赦法が適用されて1950年7月に釈放されるが、その後も、再逮捕の危険性があるため亡命することになった。
ヒクメットの詩で興味深いのは、前期にはイデオロギー色が強い内容で、様式において前衛実験的な試みをしたりしていたのだが、1938年の投獄から作風も大きく変化し、平易な言葉で日常の生活に題を取った素朴な作品が多くなったことだ。
その理由として、投獄により口伝えでしか詩を人々に伝える手段がなくなったからと言われる。また獄中には、労働者や農民が多く、当時はその大半が文盲であることに強く思い当たり、ヒクメットは、できるだけ抽象性を廃し、平易な言葉で詩を創作するようになった。彼は、長い獄中生活において詩の原点に立ち返ったのだ。
「丘の上の本屋さん」という映画は、イタリアの田舎の小さな書店という極めて限られた舞台設定だが、「書物」を通じて、実にスケールの大きな展開と広がりを見せている。
そして、まもなく死に逝くことを観る者に予感させるリベロと、新たな時代を担うアフリカ移民の少年エシエンとの交流のなかで、文学を通じて、壮大な文明論を描きだして、その文明の行き詰まりの向こうが暗示されている。
この映画監督の本意は、映画の中で引用されたヒクメットの「本当の旅」という詩において、映画の中で口にされなかったところに隠されている。
それは、おそらく、「何をするべきかこれ以上は仮定できない時、その時はじめて真の何かができる。どこへ行くべきかこれ以上は思い至らない時、その時がはじめて本当の旅の開始だ。」ということだろう。
文明社会の中で、すでに誰かが口にしていたり、準備されているもののなかに、未来の扉を開ける鍵はない。
そういう自覚を得てはじめて、本当の旅が始まり、真の何かができる。
エシエンに対して、リベロが最も伝えたかったことは、彼が口にしていないこと。彼の心の中は、エシエンに対して語った言葉に秘められている。
「注意深くお読み 本は二度味わうんだよ」 エシエン「どうして?」 リベロ「最初は理解するため 二度目は・・・考えるためだ」
つまり、リベロは、「最終的に大切な答えは、書物によって与えられるものではなく、自分で考えて発見するものなのだ」ということを伝えたかった。
文明社会には、数多くの問題が横たわっている。そして、その問題について、知識人とされる人たちが、いろいろと論じて、正しそうな答えを語っている。
しかし、イソップ物語の中にも示されているように、言葉巧みに人を操る狡い人も多いから注意が必要だ。
文明社会の問題の核心は、大切な答えを、人それぞれ自分の頭で考えることを阻害するものが、至る所に存在しているところにある。
私たちの社会では、標準化、規格化、最大公約数、学校の試験や民主主義の多数決も含めて、正しいと決められた答えに従うことが文明人とされる。
リベロがエシエンに対して、「何が起きようと決して忘れるな。人にとって最も大切なのは幸せになる権利だ。」と告げるが、この「幸せ」の定義もまた、ともすれば世界標準的なものを押し付けられそうになるが、大事なことは、人それぞれが、自分にとっての幸せとは何なのかを、世の中に出回っている伝聞に惑わされずに、自分の頭でしっかりと考え抜くことなんだろう。
映画のなかの「一番美しい子供はまだ成長前の子供」という言葉の中には多くの意味が含まれるが、文明社会の中で成長して大人になっていくことは、裸の王様を見ているだけなのに、周りに迎合してしまい、「王様は裸だ」と言えなくなってしまうことでもある。
文明社会への迎合が、思考停止と同一となり、それが集団化する時、人類世界は、幸福とは真逆の悲劇的な事態となる。
「丘の上の本屋さん」という映画は、それほど予算をかけていないだろうが、シンプルな構成と、ささやかな場面設定のなかにおける知性の深遠なブリコラージュが素晴らしい。
観客の憂さ晴らしとなる娯楽映画には大金が投じられるものの、興行的な成功につながりにくい表現活動には資本主義世界のマネーは流れ込まない時代に私たちは生きており、そのため、表現の価値付けも、その基準で行われているにすぎないのに、その歪んだ価値基準を正しいものだと盲目的に信じ込んでいる人も多い。
そうした状況は、これまでの人類の叡智の積み重ねを灰塵にしてしまう事態ではある。しかしそれでも、映画の中で引用されるセネカの言葉のように、「いかなる時も不安の種は尽きないが、なんじ常に希望を選ぶべし」という精神は大事なことで、それは、この映画を作ったクラウディオ・ロッシ・マッシミの信念でもあるのだろう。
その信念は、決して大きな声ではないが、首尾一貫して映画の中に貫かれており、表現の可能性においても、新たな扉を開けて、新鮮な風を心に流し込んでくれる映画だった。
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