偶然性の仕打ちを受容する生存の美学。

明治時代になって、浮世絵などの日本文化が、二束三文の値段で海外に持ち去られたように、日本人は、日本にあるものの価値を知らず、欧米のものに価値があると思い込んで、高い値段を払ってまで手にいれてきた。そして、欧米から褒めてもらって初めて、自分のところにあったものの価値に気づく。
 そうしたマインドを謙虚と言うこともできるが、卑屈でもありえる。お墨付きマークのついた強いもの(権威)に取り入ったり、へつらったりして、自分がその仲間入りをさせてもらった途端、その外にいるものを見下して、威張って、傲慢になる。
 けっきょく、自分の目や身体や頭を判断の基準にすることが苦手というだけのこと。
 そうなると、「世の中がこうだから」とか、「周りがこうだから」とか、周りの目や世の中の流ればかり気にするようになる。
 しかし、これは何も今に始まったことではない。
 源氏物語が書かれた平安時代、とくに男社会は、そういう状況だった。
 1000年前に書かれた源氏物語の中に登場する人物の心模様が、現代人と近いことに驚く人もいるが、1000年前の貴族社会というのは、今と同じ人工的環境の都市文明社会であり、だから観念的で頭でっかちになりがちだった。
 その後の封建時代の武士の時代になると、状況は変わってくる。土地(自然)に根差し、メメント・モリ(死を想え)というポイントから人生を考えざるを得なくなるからだ。
 1000年前の源氏物語で描かれる男性貴族は、現代人のように観念的であり、物質的であり、後の時代の武士のような潔さからは遠い人物が多い。ウジウジと卑しくて打算的で理屈っぽい男が多く登場する。
 紫式部は、そうした男社会を、冷静に観察している。
 それに対して、紫式部が描く女性たちは、観念的ではなく実存的(ここに今あるということ)である。
 実存主義は、キルケゲールやサルトルやメルロ=ポンティなど、西欧の高名な哲学者の思想にかぎったことではない。
 日本には、「いきの構造」の九鬼周造がいる。
 風の旅人の第49号において、哲学者の鷲田清一さんとロングインタビューを通して対話を行ったのだが、その対話の核に九鬼周造の哲学があった。
 九鬼周造は、西洋の知性を十分に摂取したうえで、日本という像を描き直そうとしたわけだが、西洋の実存哲学者に比べて、偶然性に対する考察が深かった。
 西洋の実存主義哲学において、偶然は、どちらかといえばネガティブな意味になる「不条理」だが、九鬼は、偶然を積極的な意味合いで捉えている。
 人間は偶然に生まれ、偶然に死ぬ。個々の実存や、その死は、偶然性に彩られているにもかかわらず、西欧哲学においては、必然性が重視され、偶然性については深く論じられていなかった。
 九鬼周造の「いきの構造」を核とした鷲田さんと私の対話の最後は、「もののはずみは、いのちのはずみ」 というところに着地した。偶然性という可能性の幅を確保していくことが、生存の美学だと。「もののはずみ」というのは、偶然性ということである。
 九鬼周造は、この可能性の幅を、「平行の美意識」とした。完全に交わらないこと、お互いに引き合って、なびき合っているのに、相手が引っ付いてしまうと拒む。
 九鬼周造によれば、放射状の線の全てが真ん中の一つに集中する形が一番ダメで、どこまでも交わらない緊張感のある平行線がよくて、それこそが本当の自由。自分と異なるものに対しても、違うからといって否定して認めないのではなく、同調したり一緒になったりしないけれど、平行して、共存するのが”いき”。
 偶然性は、現在の状況を変えていく力を秘めている。それは邂逅であり、その巡り合いがなければ、生命力は、減退していく。
 つまり、”いき”という生存の美学は、(自分と異なる)他者との偶然の遭遇( 邂逅)を常に真摯に受け止め、 それを通して自己の運命を”愛していく”という生き方であり、その意味で、それは、源氏物語において、光源氏と関わる女性たちの生き方でもあった。
 この際の”愛していく”というのは、現代的価値観である自己本位の選り好みではなく、意のままにならないものでも受容するという本来の意味の愛である。
 生きていくということは、生老病死が運命であり、自分の意のままにならない偶然性に翻弄される。この偶然的現実を否定しようと思っても、それはできない。かといって、生身の心が、平気でいられるはずもなく、寂しさにつきまとわれる。その寂しさとどう向き合うか。
 九鬼周造は、寂しさから諦めへの転換という。
 実は、これこそが、「もののあはれ」の本質であり、1000年前、紫式部が源氏物語を通して、描き出していた生存の美学であった。
 紫式部が描く女性たちは、観念的ではなく、偶然性の仕打ちを受容しながら、その寂しさを諦めに転換し、実存的(ここに今あるということ)に生きる存在である。
 光源氏は、一面では主人公であるが、光源氏の光で照らし出される女性たちこそが本当の主人公であり、その証に、光源氏は、全体で54帖もある物語のなか、第41帖の「幻」において、フェードアウトする。
 光源氏の「色好み」は、現代的解釈では、単なるプレイボーイということになるが、本来の意味は、優れた女性の霊力を獲得するために、自らも、相手に尽くし、誠心誠意もてなすことが本分である。
 末摘花のように、周りの男性から見向きもされない、見栄えも良くなく、男性とのやりとりも下手で生真面目なだけが取り柄のような女性に対しても、彼女の心を愛し、彼女の振る舞いの至らなさが彼女自身の問題ではなく侍従たちにあることを察し、彼女を不憫にさえ思う。
 光源氏のこうした述懐がなければ、末摘花という人間の興味深さや愛らしさは、誰にもわからない。光源氏は、このように女性の内側をも照らす光として描かれている。
 そして、源氏物語の最後を飾る浮舟こそが、実存的(ここに今あるということ)に生きる存在であることを最も明確に示している女性である。
 光源氏から繊細な内面を取り除いたような単なるプレイボーイとして描かれる匂宮と、人を引きつける魅力はあるものの、自らのアイデンティティに悩み、分別くさく煮え切らない薫という二人の貴公子。なんだか現代の男性像のような二人のあいだで板挟みになって苦悶を重ね、川に身を投げる浮舟。
 彼女は、生まれた時から、自分の意思を超えた偶然性の仕打ちに見舞われてきた薄幸の女性だった。
 この浮舟は、自らの意思として死を選択しながらも、横川の僧都のおかげで一命を取り留め、出家の道を選ぶ。
 そして、その浮舟を薫が訪ねてくるが、浮舟は、相手にもたれかかるのではなく、敢えて距離を保ち、交わらざる平行であることを選択し、対等の実存となる。
 当然ながら、心では泣いているが、運命による非情を知り尽くしているからこそ、そうした距離を保たなければ、もっと寂しいことになることを、浮舟はわかっている。
 浮舟は、フィクションのなかの登場人物なのだから、作者の紫式部が、そのことをわかっていた。
 このシーンを最後にもってきた紫式部は、まさしく、1000年前の「いきの構造」の哲学者だった。というか、その原点だった。
 九鬼周造は、日本についての像を描き直そうとしたわけだが、紫式部が描き出した実存的人間像が、中世文化の柱になっていく。
 この点において、多くの現代人の理解が、及んでいないところがある。
 それは九鬼周造の「寂しさ」から「諦め」への転換における「諦め」である。
 九鬼周造は、「人間と実存」(岩波文庫)において、

「自然に従うということは諦めの基礎をなしている。諦めとは自然なおのずからなものへの諦めである。自然を明らかに凝視することによって自己の無力が諦められるのである。」と述べている。
 つまり、自然を明らかにし、「明らめること」が諦めだ。
 起きている事態を了承するということ。そうとわかった以上は、思い切ること。
 多くの現代人にとって「諦める」は、自己の欲求を断念して我慢するという意味合いが強い。
 それは、現代人にとっての実存的証拠が、自己の欲求の延長上にあると認識されているからだ。
 だから、自己の欲求どおりにならない事態になると、我慢するという抑圧的な心理にならざるを得ない。
 九鬼周造は、「諦める=明らめる」だと、あえて古義に立ち戻ったのは、その時すでに日本社会は、近代西欧文化の影響を受けて、必然と計画による合理的秩序の精神に毒され、身に降りかかる偶然は、どちらかといえばネガティブなアクシデント(不条理)になりさがっており、「諦める」ことは、自分の意図ではないものに対する断念であり我慢にすぎなくなっていたからだ。
 そうした抑圧的なニヒリズムを超える精神を、九鬼周造は日本古来の精神から取り戻そうとした。
 「事態を明らかに凝視し、自分の意思ではどうにもならぬと判断した以上は、そのことに思いを囚われないこと」。
 偶然という運命に抵抗せず、その偶然を起点として、常に生き直す覚悟を持つこと。九鬼周造が述べている「いのちの弾み」とは、それを指すのだろう。
 紫式部は、源氏物語の最後を、「いのちの弾み」で締めている。
 現代社会において、1000年前の源氏物語を読むことの深い意義の一つは、ここにある。
 NHKの大河ドラマで、どのように描かれているのかは私は知らないが、数年前、京都で源氏物語に関するイベントシンポジウムの開催を、私が企画したことがあった。
 その時、宗教学者の山折哲雄さんなどにもお声がけし、山折さんは、光源氏の「色好み」について深いところから講演をなさったのだが、このイベントは、某大学が、文化庁の予算を獲得したもので、予算の関係上、その大学のイベントホールを使用して開催することになった。その条件として、その大学の教授を登壇者にくわえなければならないことになった。それを誰にするかは某大学が決めることになったのだが、この教授の話の内容が、シンポジウム全体の意図とあまりにもかけ離れてしまうという、私が意図していないことが起こった。
 その教授が着用しているネクタイが、わざわざ源氏物語をモチーフにしているとか、どうでもいいことのやりとりから始まって、最後に、会場に来ている人からの質問があった。
 「今、源氏物語を読むことの意義はどこにありますか?」と。
 意味とか意義が行動の先に来てしまうという現代人の特性が反映された普通の質問だが、それに対して、この教授の答えが、輪をかけて、私の意図せぬものだった。
 彼は、北海道かどこかの製菓メーカーが、チョコレートか何かの商品に源氏物語の名をつけたところ、売れ行きが伸びたという話をして、源氏物語の本文を読んだことが無い人でも、日本人なら源氏物語の名前くらいは知っているので、今でも、ブランド価値はありますよ、と答えたのだった。
 その現代風すぎる解答に対して、反論の答弁をしてもよかったのだが、これは議論するようなレベルの話ではない。
 この教授が述べたことを、「そうなんだ」と思う人ならば、それ以前に山折哲雄さんが話されたことなど、心で受け止めていないわけで、こうした返答をする教授じたいが、山折さんの話に限らず、根本的に何もわかっていない。源氏物語のことも、今の世の中の問題のことも。
 ならば、両者の話を平行のまま、頭と心の中に留めておいて、話を聞いた人たちが、それぞれ、それをどう噛み砕いていけるかどうかの問題。
 憂慮があるとすれば、大学の授業において、この教授の話だけを一方的に聞かされる学生たちだろう。
 しかし、こういう教授を反面教師にできる学生だけが、真にオリジナリティのある探求をする。
 環境が悪い方が、人を育てることもある。これもまた、いのちの弾みなのだ。
 道元も法然も親鸞も、10代の頃、比叡山に入った。しかし、すぐに、ここにいても何も学べないと悟り、下山して、それぞれの道を拓いた。
 比叡山は、日本仏教におけるパイオニア達を育てた場所であるかのように誇示しているが、比叡山という場所がダメな見本として、結果的に、道元達が育つ場になったというのが歴史の真相である。
 (道元は、比叡山を離れて京都で活動していた頃も、比叡山から迫害、攻撃され続けて、結果的に、福井の永平寺を拠点とすることになった)。
 学校教育にかぎらず、現代日本社会には、様々な問題があるが、それらを、「不条理」とネガティブに捉えているかぎり、いのちの弾みは起こらない。
 どんな時代環境であれ、生存の美学は、偶然の遭遇( 邂逅)を常に真摯に受け止め、 それを通して自己の運命を”愛していく”という生き方である。
 繰り返しになるが、それは、源氏物語において、光源氏と関わる女性たちの生き方でもあり、この際の”愛していく”というのは、自己本位の選り好みではなく、意のままにならないものでも受容するという本来の意味の愛である。

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