日本人の心がどう作られてきたのか。縄文と渡来文化のあいだ。

 日本人の心が、どう作られてきたか。
 三日前に、中世の「いろは歌」のこと、二日前に、万葉の時代に遡って書いてきたけれど、今日は、おそらく縄文時代に遡るスピリット(おそらくというのは、縄文時代というのは、私たちに染み付いている思考特性の向こうの世界なので、そう簡単にわかるものではないから)と、渡来文化の影響を強く受けるようになった時代の橋渡し的な存在であると思われる空海や役小角を軸にして、書いてみたい。
 現在、山あじさいに美しく彩られている高幡不動尊金剛寺は、真言宗の寺。伝承では空海が設置したことになっている巨大な不動明王像が、よく知られており、古来より、成田山新勝寺などとともに関東三大不動とされる。
 古文書では、この寺は、奈良時代、東大寺大仏の造営に最も貢献した行基が開基したとされる。

 しかし、寺伝においては、この寺は、平安時代、円仁が、この場所に霊場を築いたことが始まりということになっている。
 それはともかく、真言密教の寺なので、本尊は、大日如来。境内の一番奥にある本堂の正面に30センチほどの隙間が設けられ、その奥に、見えるか見えないかの状態で、大日如来像が設置されている。
 一般的に、高幡不動尊金剛寺に来る人にとっては、不動明王の方が人気が高く、不動堂はいつも大勢の人が参拝しているが、大日堂の前は、ひっそりとしている。
 不動明王というのは、厳しく人々を導く仏さま。
 それに対して、大日如来は、実態がよくわからない。
 この、よくわからない実態というのが、日本の思想の鍵になっている。
 よくわからないから、何にでもなれる。つまり、大日如来というのは、変幻自在であり、すべての仏は、この大日如来の化身ということになる。
 空海は、この柔軟なものの捉え方ができた。しかし、最澄は、それができなかった。空海は、唐に渡った時、『金剛頂経』と『大日経』の両系統の密教を統合した第一人者の恵果に、密教の正当な継承者と認められた。それに対して、最澄は、法華と律宗と禅と密教を統合しようして天台宗を立ち上げたにもかかわらず、肝心の密教のことが、根本的にわかっていなかった。
 この二人の差は、大日如来の変幻自在性を理解できていた空海と、理解できていなかった最澄の違いによるものだ。
 空海と最澄は、奈良仏教が現在の大学機関のように経典の研究ばかり行う理屈集団になって、時たま国家鎮護の大仰な祈祷を行うだけ(現在、学者が、時々、政府の審議会メンバーになるようなもの)という状態で、衆生の魂の救済とは無関係になっていたことに対する問題意識を持った宗教改革者だった。
 そして最澄は、数十年前の左翼思想家にように自分の正しさを信じる頑迷な人物だったから、東大寺など奈良仏教勢力と対立した。
 しかし空海は、大日如来の奥深い自在力を理解していたから、たとえば華厳経の研究機関のようになっていた東大寺の盧舎那大仏もまた、大日如来の化身だから一緒だよと、丸め込んだ。そして、東大寺を、真言密教の資格を授与する灌頂という儀式の場にした。
 今でも、東大寺大仏は、華厳経の本尊である盧舎那大仏であるけれど、真言密教の本尊である大日如来でもあるということになっている。
 空海は、唐に渡って短期間のうちに、恵果に見出された。数多くの弟子たちが恵果のもとで修行を積んでいたにもかかわらず、恵果は、日本からやってきた若い空海こそが、恵果が体得した密教思想の正当なる継承者であると決めた。だから、現代でも、日本が、世界のなかで、その位置付けにある。
 チベットにも密教があるが、あれは、恵果がなしとげた『金剛頂経』と『大日経』の両系統の統合ではない。
 恵果の他の弟子たちにも、『金剛頂経』と『大日経』の両系統を統合する極意がわからなかった。そして、この統合を極めた恵果だからこそ、空海の資質を見抜き、正当な継承者にした。
 この統合を極めていれば、中国とか日本という分別は関係ないし、修行期間が長いとか短いとか、先輩後輩の位置付けも関係ない。
 多くの人が、空海は天才だったと言う。しかし、何をもって「天才」とするのか、よくわかっている人がどれだけいるのか?
 語学の達人とか、記憶力が抜群にいいとか、そういうのは「天才」というより「秀才」の資質に属し、その意味で、最澄は、天才ではなく秀才だった。
 秀才の最澄が、理解できなかった密教。空海から経典を借りて学ぼうとしたけれど突き放され、挙句の果てに、最澄は、自分の弟子を空海のもとにスパイのように送り込んで空海の知恵を獲得しようとしたが、その弟子が、最澄よりも空海の偉大さに気づいて最澄のもとに帰らず、最澄が弟子に手紙を書いて、空海の知恵を教えて欲しいと懇願したという事実。
 恵果と空海が理解していた密教の奥義。それは、『金剛頂経』と『大日経』の統合であり、胎蔵曼陀羅と金剛曼陀羅の両界曼陀羅で示されている。

左:金剛曼陀羅 右:胎蔵曼陀羅 (真言宗総本山 教王護国寺)

 これは、宇宙の根本原理を示す二つの曼陀羅だけれど、二つで一つだということを知っておかなければならない。
 胎蔵曼陀羅には、大日如来は、中心に一体だけ存在する。
 大日如来の右側には文殊菩薩など知恵の仏さまたち。左側には観音菩薩など慈悲の仏さまたち。 
 上側には、釈迦如来など伝道の仏さまたち。下側には不動明王など厳しく衆生を導く仏さまたち。
 周辺まで行けば、ヒエロニムス・ボスの絵画のように緻密に描かれた仏さまが、無数に存在するが、この全ての仏さまは、大日如来の化身である。
 大日如来というのは、森羅万象の中を流れている生命エネルギーのようなもの。人間の身体でいえば、様々な細胞を作る元になっている血液の循環のようなもの。それは、「形」あるものに姿を変えるが、それらの「形」そのものは永遠普遍のものではなく無常の存在だ。姿形を表す仏さまたちだって、その都度、役割を果たしているが、本質的には無常の存在。
 この胎蔵曼陀羅世界のなかで、個々のものたちは、それ自体が独立的に自立して存在しているのではなく、因果と縁起によって、つまり他者との関係性のなかで、その都度、存在する。
 華厳経の思想というのは、釈迦の涅槃の境地を弟子たちが構想したものだが、これは、世界に存在する個体は、すべて因果と縁起によって存在していると悟る境地だから、両界曼陀羅の世界観と、ほぼ同じである。
 西洋哲学でいうと、レヴィ・ストロースが唱えた構造主義のビジョン画が、これに該当する。
 それに対して金剛曼陀羅は、9つの四角形の区画があり、それぞれの区画に大日如来が存在する。
 この金剛曼陀羅は、双六のようなもので、右端の下から、上に向かって反時計回りに9段階を経て中央に至るという「生の流れ」がある。
 これは、西洋哲学でいうと、ハイデガーなどが唱えた実存主義のビジョン画である。
 生きとし生けるものはみな、個体と外界との接点に存在している。その関係は、ハイデガーの難しい言葉で表すと「現存在」ということになる。ハイデガーは、「人間」という言葉を用いず、「現存在」とした。その理由は、人はそれぞれ異なる人生の現場の中に存在して、それぞれ異なる課題に向き合い、それを乗り越えていくことが、自らの実存証明であるとみなしていたからだ。
 つまり、「私たち一人ひとりは、みんな同じ人間」という単純な一つの言葉でくくってしまうわけにはいかないという問題意識が、ハイデガーにはあった。
 生きとし生けるものはみな、それぞれが別々の個体を持ち、それぞれにとっての外界との接点で生きているが、それぞれ外に対する感応力を備えている。
 知覚し、イメージ化し、快とか不快を判別し、何かしらの方法で対応し、行動し、物を作ったり、技術を身につけたりする。
 この生理的な能力と活動は、環境に順応しようとする生命の働きであり、それは、異なる個体と、それぞれの外界との接点に存在する生きとし生けるものにとって、必死の生命活動、つまり生きていくための力であり、それが生を謳歌することの本質でもある。
 こうした個々の生命活動は、経験を積むごとに変容していく。
 その変容過程が、金剛曼陀羅に描かれたビジョンだ。
 同じような考え方として、マズローの欲求の5段階説がある。
 マズローは、人間の欲求を、生理的欲求・安全の欲求・社会的欲求・承認欲求・自己実現の欲求と5つの階層に分けて説明したが、この説については、「科学的な厳密さが欠如している」とか、「一般原理として採用することはできない」などという批判が、アカデミック界隈から多いのだが、西洋の学問とか西洋の哲学の最大の問題と限界が、ここにある。
 その問題と限界とは、科学的な厳密さや、一般原理として採用するために、一つの正しい解答を求めようとするところにある。
 マズローの欲求の5段階説は、全ての人に当てはまらなくても、一部の科学的研究者が否定するような見当違いの説ではなく、多くの人が、自らの経験に照らし合わせて、納得できるところも多い。 
 食べることだけに必死の段階では、その生存欲求のみに従って生きるしかない。動物と同じような生物的本能が満たされたら、社会で出世したいとか他人に認められたいといった自己承認欲求を持つ。そして、大企業などで出世しても定年退職をした時に、改めて自分の人生を問い直し、趣味を磨いたり社会貢献をしたりして、人生最後の自己実現を求める人がいる。
 人によってパターンが多少違っていたとしても、それぞれの現存在(ハイデガーのいう人間)において、それぞれの個の状態と、それぞれの外界の状態の変化によって、欲求の質が変わっていくことは事実だ。
 そして、金剛曼陀羅において、9つの区画の全てに大日如来が存在しているというのは、それぞれの段階的ステージにおいて、個と外界の関わりの中で生じる生命活動の背後に、大日如来という生命エネルギーが流れていることが示されている。形あるものは全て、この生命エネルギーの化身なのだ。
 その最終領域である真ん中の区画は、余計な煩悩や理屈(論理)を離れて、禅が説く「過去はない、未来もない、在るのは永遠に続く今だけ」という悟りの境地に至ることを示す。この悟りは、俗世間と断絶して生きるということではない。なぜなら、個としての形があるかぎり、何かしらの外界との接点において生きる宿命だからだ。それゆえ、金剛曼陀羅は、この真ん中の区画から始まって、時計回りで外に向かって一つ一つの区画を辿って右端の始まりの領域に至るという逆向きの運動が存在する。悟った者は、衆生の中へ戻っていくのだ。
 ゴーダマ・シッダールタは、出家後、6年間、苦行生活を送る。その時の姿は、ガリガリに痩せた釈迦像で示されている。
 しかし、極端に偏っては真理に到達することはできないと悟り、苦行から離れる。
 そして、菩提樹の下で瞑想して悟る。
 この悟りは、胎蔵曼陀羅で示されるような森羅万象の摂理を理解し、金剛曼陀羅で示されるような、全ての生きとし生けるものが自ずから歩むことになる生命のそれぞれの区画領域を知ったうえで、自分が為すべく今を生きることを悟る境地ということになる。
 ゴーダマ・シッダールタの場合は、自分が悟った知恵を人々に伝えるという生き方になった。
 それぞれの個には、それぞれの外界との接点があるから、全ての人にとって、ゴーダマ・シッダールタの生き方が、悟りであるということにはならないが、過去を悔やまず、未来を憂えず、今に最善を尽くすこと。それしかないという境地に至り、死の瞬間まで生きて死ぬことが涅槃ということになるのだろう。
 ゴーダマ・シッダールタは、「極端にかたよっては真理に到達することはできない」と悟った。
 西欧の学問や科学などの研究においても、その壁を乗り越えることが最大の課題となる。
 西欧哲学は厳密さを追求する学問になってしまい、科学は、一般原理として採用できることを重視し、技術への応用や、社会問題の分析に用いられ、それを行う科学者が、もてはやされるようになった。
 現実から離れすぎてしまったり、現実に寄り添いすぎてしまったり、中庸の道の極め方が、よくわからない状態になっている。
 第二次世界大戦後、レヴィ=ストロースの構造主義思想に対して、サルトルなどの実存主義思想家は、対立的な立場をとった。
 構造主義を宿命の奴隷のように捉え、自分の運命は、自分の行動によって決めていくべきだとするサルトルたちの実存主義は、流行の学生運動と結びついた。しかし、学生運動が内部抗争など次第に矛盾に満ちたものになっていき、再び、構造主義が、見直される。ただし、以前の構造主義の「説」に囚われてしまうと、生命力を減退させてしまうニヒリズムとつながってしまうから、何にも囚われずに、40年くらい前に浅田彰氏が「逃げろや逃げろ」の『逃走論』という形で、これが西欧の知の最先端であるかのように紹介したポスト構造主義という形をとることになった。
 しかし、そうなると、もはや哲学や思想は真理を追求する役割を放棄したとみなされ、環境問題や政治的問題や社会問題についての道徳的もしくは倫理的な論理を、それらしく説得力のある言葉で述べる仕事が、哲学者や思想家の仕事という具合になっている。そうした内容の本が、まず西欧で売れたりすると、「知の巨人」として日本に輸入される。
 日本の知のマーケットでは、軍事のことから老後の暮らし方健やエスカレータの安全性まで「●●に詳しい専門家」と称する学者が氾濫する状況となり、哲学や思想や芸術の書物も、わかりやすい教養書であることが求められ、真理探究の哲学や思想が、どこにあるのかわかりにくくなっている。
 近代の西欧思想は、実存主義と構造主義が対立的な立場をとっていたが、上に述べたように、恵果と空海が理解していた密教の奥義というのは、『金剛頂経』と『大日経』が二つで一つというものであり、それが、胎蔵曼陀羅と金剛曼陀羅の両界曼陀羅で示されているのだが、これは、構造主義と実存主義の統合に等しい。
 どちらか一方が正しい解なのではなく、二つの組み合わせが、森羅万象の摂理と、その中に在る生命現象を理解するための最適組み合わせ解なのだ。
 空海は、唐に渡ってからの短期間の修行によって、それを体得したのではなく、日本にいた時から、わかっていたのだと思う。
 当時の日本には、空海の前に行基がいて、行基の前に、役小角がいたから。
 役小角が、吉野の金峯山で修行中に示現したという伝承がある蔵王権現は、金峯山寺の蔵王堂に三体の本尊がある。みんな同じ姿だが、この三体は、釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩とされ、それぞれ過去、現在、未来の守護者と理解されている。
 また神道においては、蔵王権現は、オオクニヌシやスクナヒコ、ヤマトタケルと習合し、同一視されている。
 蔵王権現は、今では、修験道という宗派の一本尊という位置付けで理解されているが、「権現」とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意味であり、仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括している。つまり、縄文時代から、日本という国において脈々と伝わってきたスピリットの総体なのだ。
 そして、 10代の頃、山岳修行に励んでいた空海は、そのスピリットを体得していた。そして、密教を学ぶために唐を訪れた空海は、密教の大日如来は、修験道の役小角が見出した蔵王権現と同じようなものだと悟った。厳密に同じかどうかという論理的分析はどうでもいい。ほぼ同じようなものだという直感的認知と、その根拠を掴みとる洞察力が重要だ。
 だから空海は、修験の修行を行おうとしない最澄から、密教を学ぶために経典を貸してほしいと依頼されても、それだと何も理解できないよと突き放した。
 最澄が築いた比叡山の天台宗は、最初の段階から、密教に対する取り組みが間違ってしまった。
 空海は、天才であったが、彼個人の能力で、恵果から密教の正当な継承者として認められたのではなく、空海以前の日本に、すでに、胎蔵曼陀羅と金剛曼陀羅を統合する精神的境地が生まれていたのであって、その思想が、どのようにして整えられていったのかを理解することが大事だ。空海の能力を探るために彼の経歴を辿ったり、彼が残した言葉を分析することだけに専念しても、おそらく空海の思想は、読み解けない。
 胎蔵曼陀羅と金剛曼陀羅を統合する精神的境地の獲得は、日本という島国の風土的環境と、地理的環境によるところが大きい。 
 日本の風土で生きていると、森羅万象の循環的摂理のなかの因果と因縁によって個が存在していることを認識せざるを得ない。それは、まさに胎蔵曼陀羅が示すビジョンであり、西欧の構造主義にも該当する。
 そのうえで、この島国には、古来から「マレビト」信仰があり、外からやってくるものに対して、畏れと憧れの気持ちを持った接点によって、「現存在」の在り方を少しずつ変容させてきた。
 大陸の国々のように、外からやってくる者が、マレビトというより侵略者であり破壊者であった場合は、戦って生き残るか死滅するかの選択肢しかない。だから、その変化は、強制的であり、自律的なものとは言えない。
 マレビトとの接点と、そのことによる変化には、自らの内発的な選択が関わっており、だからこそ、金剛曼陀羅が示す生命活動の段階的プロセスと重なり、これは、西欧の実存主義的なビジョンとも言える。
 他者との距離が、近すぎず遠すぎないという中庸であったことが、日本において、マレビトの受容を促進する力になったことだろう。
 このように、地震や台風が多く、自然力旺盛なモンスーンの気候帯で、大陸から中庸な距離に位置した島国で生き続けてきた日本人の経験と、そのビジョンが、役小角の思想の基底にあり、それが空海にも、受け継がれたのだろう。
 胎蔵曼陀羅のような生命世界を貫く因果と因縁の構造は、確かに私たちが生きている現実に存在するが、そのなかで生命活動を続けていく際、「どう足掻こうが、宿命の中にいる無常の存在ということで何も変わらない」というニヒリズムに陥って、その全体と個の関係のパターンを繰り返すだけでは、みんな同じようになって、同質化が著しくなる。まさに、機械の中の歯車のように。
 生命界でいえば、単細胞のアメーバだけで世界が構成されていてもいいわけだ。
 しかし、私たちが生きている世界は、同じ自然環境のなかにいても、多種多様な生存戦略をもった生き物が共存している。空を飛ぶものもあれば、地中深くに潜むものもいる。こうした生命世界の多様性は、金剛曼陀羅のような、それぞれの個と、それぞれの外界の接点における「現存在」としての固有の実践が、段階的に積み重ねられてきた結果なのだ。
 日本のおいて空海が整えた真言密教の本尊である大日如来は、西欧の唯一絶対神のように、どちらか一方を正しいと決める絶対の尺度を示す存在ではなく、森羅万象の摂理にそって、時に応じて姿形を変えながら、生きとし生けるもののあいだをつなぎ、胎蔵曼陀羅と金剛曼陀羅で成り立つ両界曼陀羅のように、最適組み合わせ解を求めていく力を示している。

 
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 6月22日(土)、23日(日)のワークショップセミナーは、   まず最初に、この高幡不動尊のフィールドワークから始めます。
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 新たな歴史創造の過程へとつなげる意思を持って、
 日本文化と日本の祈りの本質を掘り下げる。
 6月22日(土)、23日(日)、東京で、ワークショップセミナーを開催します。
 詳細と、お申し込みは、ホームページにてご案内しております。
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