やめることに慣れると色んな流れが早くなる仕組み
やめるのが得意です。
周りの人たちを見ていると、やめることに苦労している気がします。ちゃんとした人生を送ってきたんだろうなと思うばかりなのですが、やめるにやめれないのも大変なのはわかるので、だからこそみんなもっとやめまくったらいいのに、とよく思います。
やめてみたら気づくのに。
この本を読んで、日本の仕組みか、そうか。と初めて国という単位で「やめれない」を見れました。
やめれないと聞いて、まず自分の脳裏によぎったのは、農村の風景です。
地方に住む知人は、先代から引き継ぐ広大な畑や田んぼを持っています。専業農家ではないですが、近所の人のチェックが入るので農作物の栽培をやめれないそうでそれが大きな悩みです。
「お金もかかるし、作るのも大変だしね…でもやめることは許されないんだよ」
と自分ちのお米は作っても消費できないので、古々米(2年前の米)を食べていると話していました。新米ありつけず。野菜も大量にあるのに販路を開拓する時間も手間もない。
いやなんか異常なほど息苦しい。むしろやばい。
その環境から逃れられないって本当に苦しいです。でもそれを「しょうがない」と納得したふりをして、周りと同じような行動を取るしか過ごし方がないんだろうと悲しくなりました。
知人から見ると私は「お街の人」で、完全に考え方も感じ方も違いました。私は新興住宅地で育ったので、村の人の気持ちはわかりません。近所は全員よそ者です。でも、またそこにはそこで「スペックを争う」という見えない競合が行われており、限界を感じてあらゆる世界へ散っていった人もよく見かけました。
こういう話について考えると「狭いってやあねぇ」と感じつつ、そこを「主観に歪みがあるのでは」と思い直すようにして”本当に狭いのか”を考えるようになりました。
狭いと思っていても、実は広かったり、狭くても広く見せることは出来る。というのを大人になり、色んな人から思考を授かるうちに気づけるようになり、ようやく息がしやすくなったのも最近です。
狭く感じるのは、とうにやめてよかったことを自分が「ただやめれなかった」だけではないのか。
なら、やめてみたら良い。
やめるのも「練習」だそうです。
やめる→次はこうしよう→違った→また試す→違った→今度は合ってる→飽きたやめる→次のことやる→
を繰り返すのが人間の営み…くらいに捉える余地がある、この本に書かれたマレーシアがキラキラと眩しい。
みんなが目標を同じところに捉えて国を発展させてきたけど、発展させ終わったら衰退してきちゃった、というのが今の日本で、あーなんだかなぁと思います。
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