見出し画像

よしなしごと。

仕事を休むことになり、しばらく寝たきりの日々が続いた。
健康のために歩くことを勧められて、25分ぐらい歩いて帰宅する。そして寝る。
という日々を送った。

歩ける日もあれば、歩けず寝ていることもあった。
当初は文字が読めなかったため、また電車に乗っていると胸が圧迫されるような思いがしたため、出かけたことを後悔したこともあった。
ただ、その時観劇した『フェイクスピア』は、一生忘れることはないだろう。
鹿のようにしなやかに舞台を跳びまわっていた(私にはそのように見えた)高橋一生さんを覚えている。美しかった。
帰りの電車も苦労しながら乗車し、昼公演を観たはずなのに帰宅したら夜中だった。

私は病を自覚した。
しかし本当に病と向き合うことにしたのは、医者から仕事復帰の許可が降りなかった時である。
私は自分の病が客観的に見て重篤だとは気づいていなかった。客観的に見る気がなかった。

しかし、そのような状態ではあったものの、
私は表現者に興味があった。
椅子にぐったりと腰かけながら、歌を歌う人、演奏する人、芝居をする人を観に出かけた。
生きて力いっぱい表現する人が恋しかった。

今思うと、私は当時「生きがい」を失っていた。人にはさまざまな「生きがい」があり、大切なものがあると思う。我が子であったり、恋人であったり、仕事であったり。
私はそれが仕事だった。私は人生の早い時期にしたいことを決めてしまい、また人生の早い時期に一般のレールからはみ出ることを決めてしまった。最初からレールをはみ出るつもりはなかったのだが、結果的にはみ出てしまったのでその運命を受け入れたのだ。
そして仕事に打ち込んでスキルの上達を目指した。そのようにしてつかんだ「生きがい」だったが、個人経営の仕事でない限り、組織の決めたことに従わなければならないし、適応していかなければならない。
ただ、私はそれがうまくできなかった。「生きがい」が目の前で壊れていくのを見ていた。私の心も一緒に砕け散っていった。

今はどうだろうか。
自分を観察してみるに、私の散り散りになった心は元には戻らないし、虚しさが慢性的に私を覆っている。
生きて精一杯表現する人達のことは見続けている。とても眩しい。ただ自分にはとても遠い。

たくさん歩けるようになったし、文字も読めるようになった。仕事も少しできるようになった。
無理をしていることを自覚できないため、体がサインをくれる。過呼吸、眩暈、体重が落ちる。1年間で10キロ落ちた。

まだまだ療養の日々は続く。
長い年月かけて壊れてきたのだと思う。
長い年月かけて付き合っていくしかない。
でもちょっと、予測不能な自分の心身が不安。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?