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探究の結果として習得がある(デューイ『民主主義と教育』読書メモ, 第11章)

知識詰め込み型の学習か、探究型の学習か。紋切型の二項対立であり、問い自体がおかしいと切って捨てたくなるが、よく考えると検討する価値のある問いでもある。しかし、二項対立の問いをそのまま引き受けるのはあまりに不毛すぎる。

では問うべきは何か。それは「知識習得」と「探究」の関係ではないか。両者がどういう繋がりを持っているか説明できる言葉を持っておくことは、混迷を極める現代で(いい意味で)真面目に教育をやっていくためには不可欠なことなのではないかと思う。

ジョン・デューイ『民主主義と教育』にはこんな一説がある。例えば、このデューイの言葉に同意するかどうか。この問いへの答えは、その人の教育観の(少なくともある側面は)あらわすのではないかと思う。

習得は、探究の活動に対して、いつも二次的・手段的である。(Acquiring is always secondary, and instrumental to the act of inquiring. )【11章】

私は直感的には、デューイの命題に反対の立場を取りたい。なぜならば習得が探究に対して「いつも」二次的であると言うのは強すぎる言明だと思うからだ。人生を振り返れば、探究をしていなかったとしても、何かを習得した経験が沢山出てくる。

しかし、よくよく考えるとやはりデューイに同意せざるを得ないのだ。問題は「探究」の捉え方にある。デューイがいう「探究」は「探究学習」のことではない。つまり、デューイは探究学習としてデザインされた学びの経験がなければ人間はなにも習得できないと言っているわけではない。デューイの言葉に耳を傾けると、「探究」とは問題解決の営みすべてを指す、非常に広い概念であることに気付く。

もし探究とは問題解決の営みであるならば、つねに探究は習得に先行していると言い得るのでははないか。なぜならば、ありがちな比喩とは異なって人間は知識を詰め込まれることはできないからだ。例えば、講義を聞いているだけであっても、過去の経験を思い返して紐づけながら聞く生徒もいれば、ぼーっとしていて左から右に流れていくだけの生徒もいる。前者の生徒は、本当に小さいけれども「探究」をしている。そう考えると、生徒が「探究」することなしに「習得」することはあり得ない。

確かに生徒の頭の中を見ることはできないが、デューイの言っている意味での「探究」が教室で起きているか。授業研究をするとき、取得した生徒の談話データを分析するとき、前提の前提にそれを置いておきたい。それを踏まえてこそ、結果的に「習得」が起きたか起きなかったか、というデータが生き生きと語りかけてくるようになる。

また、「習得」が大切であるからこそデューイ的な意味での「探究」が必要だと言うこともできる。この命題を解きほぐすには「習得」の意味を整理しなければならない。例えば、オウムのように反応ー応答で記号列を答えられることが「習得」なのかを問わなければならない。しかし、これはまた別の機会に語ることにしよう(デューイはこの問いにも示唆深い答えを与えてくれる)。

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