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興味とは当事者意識のことである-デューイ『民主主義と教育』読書メモ(第10章)

意欲、興味、関心、ワクワク、そして当事者意識。子どもが学びに向かう姿勢を形容した様々な言葉である。「子どもが興味・関心を持てるような授業をしよう」というのは、現代のゴールドスタンダードになりつつある。それでは一体、興味とは何なのだろうか。

興味とは何かを改めて考えると、極めてあいまいにしか理解できていないことに驚かないだろうか。確かに、この驚きをおぼえるのは思考力や観察力の乏しい私だけなのかもしれない。しかし、少なくとも私は「興味とは何か」と問われたときに、一言で答えられる言葉をかつては持っていなかった。

私がデューイから受け取った洞察は「興味とは当事者意識のことである」ということである。それゆえ、子どもたちが「当事者」にならない教育プログラムをいくら展開したところで、「興味」を引き出すことは本来はできないはずである。逆に、「当事者」でありさえすれば、「興味」は別途用意しなくても子どもたちの中に勝手に湧いてくる。したがって、逆説的だが「興味」に着目して教育活動を展開しようとすることは、学びの本質(真正性)を失う方向に作用することが多い。

以上の洞察を、デューイの言葉でまとめなおしてみよう。デューイは『民主主義と教育』の中で、興味の本質は、未来に気遣いや不安を覚え、またよい未来をつくり、悪い未来を避けるために行動することであると語る。素朴に言い直せば、「このままいくとどうなるのだっろう」「このままいくとまずいのではないか」と子どもたちが感じ、同時に「もっとこうしたらどうだろう」「こうしたらマシになるのでは」と自然に考えて行動してしまう学習こそが、子どもたちの「興味」が引き出された学習なのである。

別の言葉で、デューイは興味の本質を「状況にAgentとして関わること」とも言い換えている。教育政策に詳しい方はOECDのEducation2030でAgencyが鍵概念となっていることを思い起こすかもしれない。おそらく理念は通底している。AgentやAgencyは日本語に訳しにくいが、あえて訳せば「当事者意識」となるだろう。それゆえ、私はデューイの洞察を「興味とは当事者意識のことである」と要約し、教育に携わるときはいつも忘れないようにしている。

the difference in the attitude of a spectator and of an agent or participant.
傍観者の態度と当事者の態度の違い (第10章)
The latter is bound up with what is going on; its outcome makes a difference to him. His fortunes are more or less at stake in the issue of events. Consequently he does whatever he can to influence the direction present occurrences take.
後者(当事者)は、進行中の出来事と深く結びついている。当事者にとっては出来事の結果が重大な違いをもたらす。多かれ少なかれ、当事者の運命は出来事の結末に賭けられている。それゆえ、当事者は現在の状況の方向に影響を与えられることは何でもするのである。 (第10章)
The attitude of a participant in the course of affairs is thus a double one: there is solicitude, anxiety concerning future consequences, and a tendency to act to assure better, and avert worse, consequences.
したがって、当事者の態度は二重である。一方には、未来の結果に関する気遣いや不安があり、他方にはよりよい未来を確かなものにしようとし、また悪い未来を避けようと行動する傾向がある。 (第10章)
There are words which denote this attitude: concern, interest.
こういった態度にぴったりな言葉が「関心」と「興味」である。 (第10章)

(補足)ややデューイから離れるが、デューイがいうところの「興味」を引き出す教育に本気で取り組んでいるのが、前麹町中・現横浜創英の校長を務めている工藤勇一先生だと思う。工藤先生のキーワードも「当事者意識」にあり、おそらくはデューイが感じた危機意識と同じものを原動力に教育に携わられていると思う。「興味」という言葉は軟弱化され、子どもたちを甘やかす実践を想起させる危険も持っているが、しっかり概念を鍛え込めば、工藤先生の実践のようなものに到達せざるを得ないものである。その点をゆめゆめ忘れてはならないと自戒させられるのが『民主主義と教育』第10章であった。







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