ジョルジョ・アガンベンの主著『身体の使用』で語られた驚くべき概念である「〈生〉のスタイル」は、ミシェル・フーコーの思考を一つの源泉としている。アガンベンは、「生存の美学」に関するフーコーとアドの対立を描写することをもって「インテルメッツォⅠ」という章をはじめている。アガンベンによれば、両者の違いは「主体は主体の生活と行動にたいして超越したところに位置している」というありふれた考え方からの距離にある。
したがって、私たちは常に自己を創造し続けるというプロセスのなかで生きることしかできない。人生にとって、Why(ミッション)やWhat(目標)ではなく、How(スタイル)の問いが本質的である(それなしには済ませられない)のはこのためである。
こうした「自己」と「主体」のフーコー的な見方が提起するアポリアが「関係以外のなにものでもないこの自己は、どのようにすればみずからをみずからのもろもろの活動の主体として構成し、それらを統御して、ある一つの生のスタイルおよび「真実の生」を定義することができるのだろうか」という問いである(p.180)。そこには自己と主体の関係を巡る問いがある。
この問いを解くためには「権力関係」を思考の軸に据える必要がある。アガンベンは、このことを構成的権力と構成された権力からのアナロジーによって明白に語っている。そこでは、「権力関係が必然的に主体を召喚することになる」(p.185)という仮説が立てられる。
こうした主体と自己の関係を考えるにあたり、アガンベンはフーコーとともに「権力関係の流動化の経験」(p.183)の重要性に同意しながらも、フーコーに対して「存在論との歴史との直接的な対決を一貫して回避してきた」(p.185)ことを以て批判する。そしてアガンベンは、古代の思考を一つのよすがとしながら、「けっして自由な主体という継承をおびることのないような自己との関係および生の形式の可能性」(p.185)を探究する。