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『身体の使用』「インテルメッツォⅠ」(ジョルジョ・アガンベン)

ジョルジョ・アガンベンの主著『身体の使用』で語られた驚くべき概念である「〈生〉のスタイル」は、ミシェル・フーコーの思考を一つの源泉としている。アガンベンは、「生存の美学」に関するフーコーとアドの対立を描写することをもって「インテルメッツォⅠ」という章をはじめている。アガンベンによれば、両者の違いは「主体は主体の生活と行動にたいして超越したところに位置している」というありふれた考え方からの距離にある。

一九六九年の有名な論考〔「作者とはなにか」〕において、フーコーはまさしくこの考え方を問いに付していたのだった。彼は作者なる存在をひとつの法律的 - 社会的擬制にすぎないとしたうえで、作品のうちにそれにさきだってそれの外部に存在する主体の表現ではなくて、むしろ、主体がそのなかにたえず姿を消していくひとつの空間が開かれる事態を見てとろうとしていた。そして作品が作者と見分けがつかない状態にある点に《現代のエクリチュールの基本的な倫理的原則の一つ》を見定めていたのだった。

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』(p.172)

したがって、私たちは常に自己を創造し続けるというプロセスのなかで生きることしかできない。人生にとって、Why(ミッション)やWhat(目標)ではなく、How(スタイル)の問いが本質的である(それなしには済ませられない)のはこのためである。

自己自身との関係は組成上自己の創造という形態をとるのであり、その過程のなかにしか主体は存在しないのである。 […] 本来の意味では主体は存在せず、ただ主体化の過程のみが存在するということを意味している。 […] 「自己」は、フーコーにとっては、実体でもなければ、ある操作(自己との関係)の客観化できる成果でもない。それはその操作そのものであり、その関係そのものである。すなわち、自己の関係、自己の使用以前に、主体は存在しないのである。

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』(p.174)

自己の実践、フーコー的な倫理的主体は、このような内在性である。つまりは〈みずからを散歩させること〉としての主体であることなのだ。自己の実践のなかでみずからを構成する存在は、けっして自己の下か前かにとどまってはおらずーーあるいはとどまっているべきではなくーー、けっして自己から主体ないし「実体」を切り離すことはなく、自己に内在したままでありつづけており、中断することなく、自己を動作主として訪ねる者として、散歩する者として、愛する者として、構成し、提示し、使用しつづける。

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』(p.179)

こうした「自己」と「主体」のフーコー的な見方が提起するアポリアが「関係以外のなにものでもないこの自己は、どのようにすればみずからをみずからのもろもろの活動の主体として構成し、それらを統御して、ある一つの生のスタイルおよび「真実の生」を定義することができるのだろうか」という問いである(p.180)。そこには自己と主体の関係を巡る問いがある。

もし古代が主体なき自己の配慮と構成の見本を提供しており、キリスト教が自己との倫理的関係を全面的に主体に吸収してしまうような道徳の見本を提供しているのだとするなら、フーコーの賭けは二つの要素の相互的な共属関係をしかと保持することにあったのだった。

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』(p.183)

この問いを解くためには「権力関係」を思考の軸に据える必要がある。アガンベンは、このことを構成的権力と構成された権力からのアナロジーによって明白に語っている。そこでは、「権力関係が必然的に主体を召喚することになる」(p.185)という仮説が立てられる。

伝統的なとらえ方は、起源に構成的権力を設定する。この構成的権力が、絶えざる循環のもとにあって、構成された権力を創造し、自分の外へと切り離すといいうのである。だが、真の構成的権力というのは、自分から切り離されたかたちで構成された権力を産み出すもののことではない。その場合、構成された権力は自分では到達不可能な根拠としての構成的権力を参照するというのだが、しかしながら構成的権力のほうは構成された権力を産み出したということに由来する以外の正当性をもたないのである。本当をいえば、自己を構成的なものとして構成する能力のある権力ーー主体ーーのみが、構成的な存在なのである。自己の実践とは、主体が自らの構成的な関係にみずからを適合させ、その関係に内在したままにとどまっているような、この操作のことをいう。

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』(p.178)

主体とは自己の配慮における賭け金なのであって、この配慮は主体が自己自身を構成する過程以外のなにものでもないのである。そして倫理とはある主体がみずからの生の内部か上か下に留め置かれる経験のことではなくて、その主体が自分の生との解消しえない内在的な関係のうちにあって自分の生を生きながら自己を構成し変容させる経験のことをいうのである。

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』(p.179)

権力関係は、支配状態とは異なって、必然的に、そのもろもろの活動を「指導」し統治することが問題となる自由な主体を含みもっている。そしてその主体は、自由な主体であるかぎりで、権力に頑強に抵抗する。しかしまた、まさにその主体を自分自身を「自由に」指導し統治する存在である限りで、宿命的に、他の主体の振る舞いを指導することを(あるいは他の主体によって自分の振る舞いを指導させることを)旨とする権力関係のなかに入りこむこととなるだろう。 […] なんらかの生の形式において主体化するということは、それと同じぶんだけ、ある権力関係に隷属するということにほかならないのである。

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』(p.181)

こうした主体と自己の関係を考えるにあたり、アガンベンはフーコーとともに「権力関係の流動化の経験」(p.183)の重要性に同意しながらも、フーコーに対して「存在論との歴史との直接的な対決を一貫して回避してきた」(p.185)ことを以て批判する。そしてアガンベンは、古代の思考を一つのよすがとしながら、「けっして自由な主体という継承をおびることのないような自己との関係および生の形式の可能性」(p.185)を探究する。


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