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自らの生のスタイルに住まうことのくつろぎ:自分のものとして所有することのできないもの(アガンベン『身体の使用』読書メモ)

言葉がうまくでてこない。どんなに言い換えてみても、自分の言葉が自分の表現したいものを言い表してしないように感じる。そのような悪戦苦闘は言葉を大切に生きている者であれば誰もが感じることだろう。

アガンベンは、《言語を操って自分のものにすることを務めとしている者たちーー詩人ーー》は《言語を自分のものにすることを追い求めているが、それは同じ程度に自分のものでなくすことでもある》と語っている。言語を自分のものでなくすとは、どういうことか。最も顕著な例は《ある一つの別の神的な原理(ムーサ)が詩を発していて、それに詩人はただ声を貸しているにすぎない》と考えることである。

夏目漱石の『夢十夜』に出てくる運慶をめぐった会話を思い起こす人もいるだろう。《「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。》ここで「私」と「若い男」が語る運慶と仏像の関係は、そのまま詩人と言葉と類比的である。

詩人と詩の関係、運慶と仏像の関係を思考するときにアガンベンが依拠する鍵概念が「スタイル」と「マニエーラ」である。両者は包含関係にある概念でもなければ、対立概念でもない。むしろ、両者をセットで使わなければ全体を捉えられないのである。言い換えるならコインの裏表のような関係にある概念である。「詩人が詩を創る <-> ムーサに詩人が声を貸している」「運慶が仏像を創る <-> 運慶は仏像を掘り起こしている」という一セットの考え方があるとき、「詩人がムーサに声を貸すかのようにして詩を創る」「運慶が木の中から掘り当てるようにして仏像を創る」と考えるのがスタイルである。一方で、「詩人が詩を創るかのようにしてムーサに声を貸す」「運慶が仏像を創るかのようにして木の中から掘り起こす」と考えるのがマニエーラである。両者は同じ現場をカメラで中継するときに、どこに焦点を当てて映像を撮るかにも似ているといえるだろう。

この二重の所作が言語のうちに印される様式をわたしたちは「スタイル(stile)」および「マニエーラ(maniera)」と呼ぶことができる

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』(p.152)

スタイルもマニエーラもむしろ詩的所作の還元不可能な二つの極を名指ししている。スタイルが詩的所作のより自己固有的な特徴を印しづけているとするなら、マニエーラのほうは脱自己固有化と無所属性という逆の要請を書きこんでいるのである。

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』(p.152)

スタイルは自分のものでなくすようにして、自分のものにすることであり(自分のもののうちにあっての至上の無頓着さ、自失)、マニエーラは自分のものにするようにして自分のものでなくすことである(自分のものでないもののうちにあっての自己現前ないし自己想起)

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』(p.153)

私と私の人生との関係もまた「スタイル」と「マニエーラ」によって思考することはできないのか。アガンベンがフーコーとともに探究するのは《それぞれの個人の人生は一個の芸術作品にはなりえないのでしょうか》《芸術作品としての自己の生の創造》(p.173)という考え方である。ここまでの思考を踏まえるならば、私たちが自分たちの人生を創るときに起こっていることとは「自分の人生でないかのようにして自分の人生を創る(スタイル)」のであり、「自分の人生を創るかのようにしての人生を自分のものではなくする(マニエーラ)」という運動のただなかにいることである。

アガンベンは、《スタイルとマニエーラ、自分のものにすることと自分のものでなくすこととが両極を構成している緊張の場を「使用」と呼ぶことができる》(p.153)と宣言し、スタイルとマニエーラを「使用」という彼の哲学の中心概念に関連付ける。使用とは《自分のものとして所有することができないものへの関係》(p.144)である。

それでは、なぜ、スタイルとマニエーラは「使用」と結びつくだろか。ここでは、「使用」が「住まうこと(abitare)」と関連付けられていることが鍵になる。久々に帰省して、故郷の家に帰ったときのことを思い出してみよう。東京に出てくる前に家に「住んでいた」ときとは異なる感覚を味わうだろう。この「住んでいた」ときの感覚と「帰省したとき(もはや住んではいないとき)」の感覚を分かつものは何なのか。アガンベンは《住まうとは、なにものかと、それのうちに自分を喪失し忘却しさることができるほどまでに、それを自分のものとして所有することのできないものとして構成するほどまでに、強烈な使用関係にあることを意味する》(p.154)と言明する。家に住んでいるときは、家を住んでいるということを意識することはない。しかし、家から離れると、家を強烈に意識することになる。このような「住まうこと」を「使用」の本質的な意味と捉えるならば、《《使用のうちには、つねにスタイルから距離をとったマニエーラ、自分のものではなくされてマニエーラになってしまったスタイルが存在している》(p.154)という一節の意味も明らかになるだろう。詩人が詩のうちに住まうこと、運慶が彫刻のうちに住まうこと、それこそが「使用」なのである。

それでは、私たちが自らの生のうちに「住まう」ことが生のスタイルを構成する重要な要素だとするならば、それはどのような意味合いを持っているのだろうか。アガンベンが詩人と詩の関係と並んで引用しているもう一つの事例である「風景」を吟味しながら思索を深めよう。なぜここで取り上げるのは「風景」なのだろうか。アガンベンは、《高所から眺めることに古代人が正真正銘の情熱を注いできたことを示すテクストが多数残っている》(p.156)《生態学者たちは、動物の王国ではヤギやラマやネコやサルが高いところによじ登って、これといった理由なしに、周囲の風景を眺めるのを見いだしてきた》(p.156)といった点を挙げながら、風景は近代の発明であるという主張を退け、風景は人間にとって(そして生きものに)関わる基本的な現象であると言明する。風景の本質を探ることで、人間と世界の関係をさらに一歩深く理解することができるのである。

風景に対する考察の補助線として、ハイデガーが『形而上学の根本的諸概念』で言及したミツバチの事例に立ち寄る必要がある。《ミツバチは自分の衝動を抑止解除するもの〔蜜〕にしっかり気を取られている。そのため、それに対峙してそれを客観的に存在するなにものかとして近くするいことはできない》(p.157)。これはミツバチの事例であるが、人間とて同じことではないだろうか。注目されたいという欲を抑止解除するため、SNSでバズるように倫理を欠いた投稿をしてしまうときには、SNSに存在する他者の本質は知覚されていない。この状況から離陸するためには《自分が開かれた状態にないこと、自分がもろもろの抑止解除するもののうちに捕らえられ放心していることすらも知覚していない》こと(p.158)を理解する必要がある。別の言い方をすれば《世界は動物と抑止解除するものとの関係を宙づりにし不活性化することをつうじてのみ開示される》(p.158)。それゆえに、《存在は最初から無によって横断されているのであり、世界はその組成から否定性と居心地の悪さによって印づけられているのである》(p.158)。

風景をみるとき、私たちは環境から世界への移行を果たしている。山の頂上から美しい風景をみるとき、私たちは風景の構成要素を、自らの欲を抑止解除するものとしてはみていない。たとえ山登りで喉が渇いているからといって、遠くの川のきらめきをみて、喉を潤わせたいと感じるならば、それは風景をみていない。このような風景への没入を極めていくと、私たちは《了解しようとこころみることはせず、ただひたすら眺める》(p.159)という境地に到達するのである。そのとき、風景は所有することはできないものになっている。《風景を眺めやる者は、もはや動物的な存在でも人間的な存在でもなくて、当人自身が風景であるにすぎない。彼はもはや了解しようとこころみることはせず、ただひたすら眺める》(p.159)。私と風景の関係は「使用」である。風景を眺めているとき《自己の使用と世界の使用は余すことなく一致する》(p.160)。そのため、使用が住まうことであることを思い出すならば《もし世界にあたっては人間が必然的に投げ出されて居心地が悪い状態に置かれているのだとしたなら、風景にあっては人間は最終的に自分の家にいるようなくつろいだ気分になる》(p.160)ことが理解できる。

それゆえに、スタイルに住まいながら生きることの対義語は、自らを所有しようとすることである。例えば、私たちは「身体を根源的に私のものと考える」ことに慣れてしまっており、吐き気や尿意を覚えるとき、身体はコントロール不能になることを常に忘れてしまっている。近代の権力は生権力として、私たちの生理学的機能までをコントロールしようとする(いつどのように寝るのか、何をどのように食べるのか等)。そして、私たちは「プライバシー」という概念を通じて《自己自身を自己のプライバシーの前提および所有者として構成する》(p.161)。

私たちは自らの生のスタイルに住まうことで、自分の家にいるようなくつろいだ気分で生きることができるのである。生のスタイルに住まうことは、詩人が詩をつくるときのように、自らの生でないかのようにして自らの生を創ることである。生のスタイルに住まうことは、風景を眺めているものが風景になっているときのように、自らの生を眺めながら自らの生と一体化した状態にある。そこには、生を創りながら、生を眺めながら、生を生きているという、主体と客体を分けられない、運動のみが存在している。

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