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『マネジメントの神話』(マシュー・スチュワート

コンサルティング・ファームが提供している価値は虚構なのか。この問いを考えたい場合は、マシュー・スチュワートの『マネジメントの神話』を読むと良い。マシュー・スチュワートは、オックスフォード大学で哲学の博士号を取得したあと、コンサルティング・ファームに転身した、変わったキャリアをもっている。

それゆえに、「経営(マネジメント)」や「戦略」といった言葉に違った光を投げかけていることが面白い。スチュワートの筆致は「定量的な分析に基づく戦略的なプランニングで、フラットな組織によって価値を創出する」という現代のマネジメントにおける思想の考古学である。

スチュワートの結論として引き出すマネジメントへの評価は厳しい。「マネジメント理論は、哲学者たちや創造的な思想家たちが何千年もの間取り組み続けてきたことにわずか一世紀しか取り組んでいないので、深さを欠いている」(p.24)。「マネジメントは、本来は道徳的・政治的問題であるものに、見せかけの技術的な解答を与えてしまう」(p.26)。「マネジメントとは、多数の痩せた疑問符に被せられたおしゃべりな言葉なのである」(p.26)。

その裏側にはスチュワートの実感もあるかもしれない。「『ぶっつけ本番でやれ』は経営コンサルタントに求められるもっとも重要なスキルを示す一つの方法だろう。 […] コンサルティングをして過ごした年月の間、自分がやっているのはたんなるでっち上げだという感覚を失うことはなかった」(p.28)。

1. 街灯の下で鍵を探す:過剰な数値化

現代の「マネジメント」の源流をたどると、チャールズ・テイラーにたどり着く。テイラーが1911年に著した『科学的管理法の原理』が「科学的マネジメントと、現在私たちが知るかたちでのコンサルティング産業を創造する革命を引き起こした」(p.44)のである。

テイラーの思想の本質を、スチュワートは以下の標語で要約しているが、どれもが現代のビジネスでもてはやされているものである:「前人未到の領域で数学を使うこと」「スマートに働け、ハードに働くな」「測定できないものを管理するな」(p.49-50)。古くからの諺「街灯の下で鍵を探す」が雄弁に語るように、こうした考え方は詭弁なのだが、現在でも定量化できないものは地位が低いとみなされている。特に、説明責任の重要性が増していく現代では、なおさらである。

そして、テイラーと出会ったのが、当時できたばかりのハーバード大学応用科学大学院の大学院長であったウォレス・セイビンと、ハーバード・ビジネス・スクールを開設するために責任ある地位を引き受けたばかりのエドウィン・ゲイである。そして、ハーバード・ビジネス・スクールが開設され、科学的にみえるマネジメントが学生たちに教えられ始めたのである。それがうまくいったのは「結局のところ、彼らの専門とはビジネスのマネジメントではなく、マネジメントのビジネスなのだ」(p.92)。

こうしたテイラーの根底にあるのは古くからある合理主義思想であるとスチュワートは言う。「資本家と労働者の双方を圧倒する新しい経営者の秩序というテイラーのユートピア的構想は、長期間にわたって培われてきた合理主義思想の一つのパターンから生じたものだ」(p.91)。

2. 戦略:トップマネジメントに捧げるレトリック

キー・クエスチョンは、「戦略はいつ「戦略」になったのか? つまり、戦略はどの時点で、何千人ものプランナーや大学教授やコンサルタントと並んで私のような人間を雇うビジネスとなったのか?」(p.230)である。

スチュワートの提示するエピソードは興味深い。1964年、ピーター・ドラッカーは『Business Strategy』というタイトルの本の原稿を出版社に送ったとき、テスト・マーケティングで「「戦略」とは、軍隊や、あるいは、政治的キャンペンーンに属するもので、ビジネスには属さない」と経営者から指摘を受けたのだという(p.230)。すなわち、戦略なしで経営していた時代があったのである。

それでは、なぜ戦略が必要になったのか。スチュワートの答えは、企業の組織上の変化によるものであって、ゼネラル・モーターズやスタンダード・オイルなどの大企業で採用された新しい「M型」という組織構造に対応し、企業でのトップマネジメントの機能を説明・正当化するものだったからだ、というものである。そしてそれが広がったのは、トップマネジメントに仕えるコンサルタントの利益を代弁していたからだ、という。ビジネススクールで「戦略」が教えられ始めることで、それが「セクシー」なことになり、人々を引き付けるのだ、と。それゆえに、本来、戦略は(少なくとも戦略的プランニングは)M型組織を取るような組織に妥当するものなのであり、スタートアップなどには似つかわしくない可能性が高いのである。

スチュワートは、戦略を流行らせた3名の人物を描く。それぞれが実務家であり、コンサルタントであり、大学教授である。

実務家:アンゾフのマトリックスで有名なイゴール・アンゾフ 。アンゾフは数学の博士号を持ち、ランド研究所に勤めた経験を持っており、ロッキード社で多角化事業部長を勤めた。そこで学んだことをまとめたのが、主著となる『Corporate Strategy』である。アンゾフが1965年に主著を出版すると「すぐに何百もの会社が戦略的プランニング部門を設けて、アンゾフが提供したマトリックスとリストを書き込み始めたのだった」(p.238-239)。

コンサルタント:ボストン・コンサルティング・グループの創設者であるブルース・ヘンダーソン。1966年に経験曲線を発見し、1967年にポートフォリオ・マトリックスを開発したことで著名である。その前提には「コンサルタントは自分が経営者たちにアドバイスをする事業の専門知識を一切持つ必要はない」(p.243)という考え方があったのではないかとスチュワートは言う。そして、「マトリクスは教室にも進出して、戦略という新しい領域を教える際の小道具としてビジネス・スクールの教授の役に立つようになったのである」(p.243)。

大学教授:マイケル・ポーター。体系的ではなかった経営学を、ジョー・ベインが独占・寡占の原因を探るために確立した産業組織論(Industial Organization)を、超過利潤の源泉を明らかにする研究の体系として読み直すことで、『競争の戦略(Competitive Strategy)』を著した。ここで有名なコストリーダーシップ戦略・集中化戦略・差別化戦略という3つの戦略の類型が立てられたのである。

こうした「戦略」の思想は、ヘーゲルの思想を源流にもっている。戦略論はすべてを計画に閉じ込めようとする。現実の不確実性を無視しながら。《経験の狂おしいほどの多様性に対するアンゾフの応答は、哲学者ヘーゲルが切り拓いた種類のものだった。すなわち、アンゾフは、錬鉄でできた概念体系の中にすべてを閉じ込めようとしたのである。彼は、人生においては計画通りにいかないことがあるという知識を抑圧しようと決意したのだった》(p.269)。同じように、《戦略的プランニングは、未来に確実に至る道という慰め(あるいは幻)を提供する》(p.270)。

戦略的プランニングに活用される様々なフレームワーク。これらは《その目的が規範的かつ記述的でもある限りで》(p.271)、思考の助けになるかもしれない。しかし、フレームワークは《経験の光が入り込めないような神殿》(p.271)になることで、つまりフレームワークが絶対視されることで、合理的ではない行動も導いてしまう。

また、戦略論は《それが由来するビジネス・スクールの制度やそれが象徴する経営者的観点と同様に、根本的には分析的で、還元的で、リスク回避的なもの》(p.330)であり、戦略論によって《人々が起業家ではなく官僚になる準備をする宿命にある》(p.330)。

それ以上に恐ろしいのは、戦略的プランニングは、M字組織が含み持っている、知的な活動に従事するトップマネジメントと、地べたに這いずり回っている中間管理職を区別する傾向を増長させることである。確かに現代では戦略的プランニングは資本主義の権化のような見た目をしているが、プランニングされた世界は、《マネジメント理論の影に潜んでいる共産主義によく似ている》(p.274)。言い換えれば、戦略的プランニングそのものが《多角化を好むバイアスを持っている》(p.273)ため、《プランナーを特定の戦略に偏らせる》《特定の形式の会社組織を暗に支持する》という大きな欠点を含んでいる(p.272)。戦略的プランニングとは、《最高幹部が中間管理職に対して持つ権力を正当化する特別なレトリック》(p.277)である。例えば、ポートフォリオマトリックスは《収益を木にせずに占有率を高めることを暗に好む》(p.295)。そして《事業についてほとんど何も知らないくせにそれを最大限に統御したいと目論む者》(p.298)にとってうってつけなツールでもあるのである。

3. 組織:フラットな組織という信仰

経営において事業戦略と並んで経営において重要な分野が組織論である。私が知る限りでも、組織論の世界では、ティール型組織をはじめとして新しいコンセプトが次々に生まれている。この流れの源流としてスチュワートが位置づけるのがエルトン・メイヤーである。《今日の教祖たちをもっともわくわくさせる「エンパワーメント」「責任ある自由」「チームの智慧」「新しい組織」といったバズワードやキャッチフレーズは、たとえ、こうした語句を推進する者がこの事実に気付いていなくとも、メイヨーとホーソン実験の時代に由来する。》(p.197)

クイーンズランド大学の哲学科教授であったメイヨーは、サバティカルでサンフランシスコに降り立ち、縁を紡いでロックフェラーと出会う。労働者革命がアクチュアリティをもっていた時代、《世界の独占市場が、自分たちが価値あるものと認める精神病理学的見解によって労働者という大衆を扱うためには、社会は、まだ発達していない科学である、職場に固有の心理学に頼らなくてはならない》(p.157)というメイヨーの主張は輝かしいものに見えた。なにしろ経営者の目線から見れば、《ストライキを減らし、労働組合ができるのを妨害し、労働条件を実質的に変化させることなく自分たちの工場に平和をもたらす計画》(p.160) であったからである。こうしてロックフェラー財団は、ハーバードビジネススクールにメイヨーの職を確保した上で、研究費として150万ドルを工面した。オーストラリアの哲学教授の平均年収が3000ドルに満たない時代において。

メイヨーの示したあるべき組織の姿は、現代の組織論が示すものと大きな方向としては変わりがない。《彼らは、実験室という小宇宙で、一種の高度に統合された社会を生み出したのだ。そこでは、上からも下からもプレッシャーをまったく感じることなく、公共の善のために、個々人が各自の社会的機能と協同を理解し、肯定するようになったのである》(p.177)。このような主張、《組織の「非公式な」または「人間的な」側面(すなわち、組織の文化と価値)は、組織の公式な買いそうよりもはるかに重要だ》(p.178)というメイヨーの結論だけを聞くと、現代でも「その通りだ」と首肯したくなる方も多いかもしれない。そして、メイヤーは1941年に『フォーチュン』誌の表紙を飾ったのだ。

しかし、メイヨーの理論はデータによって検証されることがなかった。《メイヨーが語るホーソンの物語が、すべて解釈であることは驚くべきことだ。科学的に言うならば、そこには科学は一切ない》(p.183)。それゆえにメイヨーがホーソンで行ったことが「ホーソン効果」の由来になった。《メイヨーの遺産は、発見それ自体ではなく、彼が語ったことであれば「発見」とみなされるという考え方それ自体にある。そして、自分の考えに科学という見せかけの衣装を着せようとしたことこそが、彼の後継者たちにもっとも有害な影響を与えたのだった》(p.199)

また、メイヨーの理論は、あまりにも楽観的な仮定をおいているため、あるべき論がそのまま手法に置き換わってしまっている。《メイヨーによって人間化された偶像を中心に発展してきた組織行動論という学術分野のほとんどは、人間行動に関する研究とよい行動に関する研究との混同を残してしまった》(p.203)。《大きな問題は、 […] たいていの場合、専制政治の形式を取ることだ。テイラーの科学的管理職、プラトンの守護者、メイヨーの「行政的エリート」は、世界を支配するため「科学」を超える究極のケンにを持つ。 […] メイヨーが提供したのは、経営者の利益のために労働者を操作する新しい道具だった。》(p.205)


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