もういいよ疲れたよじゃあまたね

私がこのnoteで書く日記に登場する推し。固有名詞は出さないようにしているけど、読む人が読んだら誰のことか一発でわかるんだろうな。推し、noteもエゴサしてたんですね。怖い。このnoteはツイッターの140文字では収まりきらない気持ちだったり公にはつぶやきづらいこと(つまり闇)を吐き出す場として使うことも多いので、絶対に見られたくないな。

私が推しているグループは、この1年で変わったなと思うことがたくさんありました。というか、常に変化していたけど、この1年の変化を私はなかなか受け入れられないでいました。推しには大人になってほしくかなったんです。でもこれも素敵な成長なんだと思っていました。喜ばしい前向きな変化なんだと自分に言い聞かせてきたけど、そうじゃなかったみたいです。推しを取り巻く大人たちは確実に私が好きだった頃とは違う。グループを推す上で運営の存在って大事なんですねぇ。推し自身の変化と運営の変化、時の流れにダメージをくらう今日この頃。推しのことは好きですよ。本当に。でも私が好きだったかつてのスタイルではなくなってきているんですね。それがどうしても悲しい。今だってちゃんと好きだと思ってる、これからも好きでいたい、だけどあの頃の推しが本当に本当に好きだった。でもそんなこと言えないじゃないですか。推しを否定したい訳じゃないし、こっちだっていいファンでいたい。こんな気持ちになりたくてなってるんじゃない。ツイッターでは推しに対しての肯定的な発言しか見かけない。なんでみんなそんなことが言えるの?なんでそんなに心がきれいなの?私はそんなにものわかりよくないし、気に入らないことまで肯定できるほどもう自分を騙せないよ。私の感情は私のものなのですが。自分の気持ちを殺して納得したふりなんてしたくない。そんな綺麗事みたいなことは言いたくない。いいと思えない私に問題があるのでしょうか。ファンは肯定しかできないのでしょうか。肯定できない私はもうファンではないのでしょうか。私はファンのターゲット層から外れてしまっているのでしょうか。私の心が汚れているだけなの?推しに「気分はどうですか?」と言われたら最低な気分でも「最高です!」と言わなきゃいけないみたいな、そんな空気が嫌い。いい人でいなきゃいけない空気が嫌い。こんなこと言おうものなら即追放されそうな空気が嫌い。最低な気分の人はどうすればよかったんですか?好きで追いかけているはずなのにそんなことを考えて、また自分が嫌になる。

推しには好きなことを好きなようにやってほしい。でも私は推しには友達じゃなくて崇高な存在でいてほしい。身近な存在になんてならなくていい。目に入るファンだけじゃなくて、マイノリティの存在も頭に入れてほしい。こんなファンはいらないかもしれないけど、発言しないだけで何も思ってないわけじゃないんだよ。気持ちを汲んでもらえなくて悲しいなぁと思うこともあります。でも推しは何も悪くないし、私の願望は届かなくていいです。推しを否定したりしない。私の理想から外れただけ。私がファンのあるべき姿から外れただけ。悲しいな。だから私が離れるしかないのかな。

イベントに行けないことが悔しかったから、イベントで消えるはずだった金額分好きなものを買おうと思って色々買った。ビックリした。こんなに自分のために買えるのかと。家族にも贈り物をして気分がいい。このお金の使い方のほうが有意義なのではないか。もう抗うのも疲れた。もう頑張れないかもしれない。夢から醒めそう。

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