うーたんが黙って消える世の中に生まれたかった

うーたんが黙って消える世の中に生まれたかった。昔はそうだった気がするし。

気がついたら、今までやっていた番組が終わっていたり、近くの店が閉店していたり(これは今もあるが)、別れになんの前触れもない方が気楽かもしれない。

芸能人が結婚するたびに、または離婚したりするたびに何か発表をしなければならないのは酷だと思い続けてきたが、今ではそういった「お知らせ」が過剰に繁茂しており、俺の「お知らされ」のキャパシティが度々侵されていく、そっとTwitterを閉じよう。

うーたんが何も言わずに消えてくれれば、寂しくはあるけれど、きっと今と少し質の違う寂しさであったなと思う。Twitterで「卒業します」という情報が踊るとき、私の心の奥の方では
うーたんを懐かしがる思いを、私の同世代が大体持ち合わせているだろう共感を商品化された感じがして、ムズムズするのだ。些細な感情さえ、形や数字に変換されていき、しょうもないことという、忙しなさから距離を置いていたものたちにも忙しなさが及んでいる。

隙間がないものは面白くないなと最近思っている。(懐古主義っぽくて嫌だけど)俺が小学生くらいの頃の100円ショップとかはカオスで、「安いんだからいいだろ」みたいな感じで訳の分からない商品がたくさん並んでいて、その雑然さが好きだったのだが、今はすっきりしていてとてもオシャレだ。ツッコミどころがない。

俺はツッコミ芸人なのかもしれない。「面白がる」ことに頭をつかうことが好きだ。だけど周りにはもう「ボタンを押せば出来上がり」みたいなものが多くて、親切でありがたいのだけれど、余計なお世話でもある。
俺は忙しくなってしまったのではなく、暇すぎるのではないか、昔の人が鉛筆をナイフで削っていた時間みたいなのが必要だ、と思って最近は秋葉原で買ったボロボロのスーパーファミコンを修理して「フロントミッション」をちまちまやったりしている。

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