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G(entry)

先日、出かけようと玄関のドアを開けるとAmazonの箱がドアの横に無造作に置いてあった。ずっと家にいたのに配達があったことに全く気付かなかったから少々拍子抜けし、玄関の中に運び込むと黒い影が一瞬足元を駆け抜けていった。

そいつはゼンマイ式のミニカーのような動きで俺の汚い部屋の奥へ奥へと進みたがり、勝手にルームツアーを始めたので腹が立ってきたが、物理的に潰すのも嫌だな、と思い狼狽していた。なんか死ぬ時に産卵するみたいな話もあるし。

第一俺は死んだ甲虫が何より苦手なのでそんなことはできない。どんな奴がお邪魔してきても、大体ティッシュで摘んでご退出いただく、それは慈しみとかではなく 足を曲げて硬くなったあいつらが生き生きしている時の数倍は気持ちが悪いと思うからである。長らく、そういった偶然の遭遇に際した時にみんな真っ先に殺生を選ぶことが不思議であった。どうして皆、「死」よりも「生」を不気味がるのか。

しかし今回はそうもいかない。東京やその他地域においては夏の風物詩とも言えるこの遭遇が全くない、ということで有名な北国の生まれなので最適解がわからない。 机に座して作戦を練りたい感もあるがあいつは待ってくれないので、人間としてのプライドを振りかざしつつ壁に追いやり、親が仕送りと一緒に置いて行ってくれたヤブ蚊用のジェットスプレーを吹きかけてみた。

ちょっとの泡ではあいつをバタバタさせることはできてもしても仕留めることはできなかった。ここがスタバなら結構な追加料金が発生するぞ、といった程度吹きかけると腹ばいになってジタバタし始める。おそらく床上2cmの走馬灯が流れている。

泡まみれになって天を仰ぎながらもがくそいつを眺めながら、一つの死を傍観しながら、そいつの家族について考えた。これまでの記憶について考えた、そして痛みと恐怖について考えた。

どうして我々にはこうした殺生が許されているのだろうか、はたまたそもそも許されていないが誰も口にしないだけなのだろうか。鯵を買ってきて焼いて食べる行為と、首輪のついた老犬の最後を看取る行為と、Gの死に様について考える。

これは潜在的なプログラムで、人間にとって有益(そして容易く、貧弱)なものを愛し、何か害をなすものを嫌うようにこころが出来ているとしたら理にかなっているようにも思える。
忠犬がいれば愛し、毒虫がいれば殺す。愛がその延長にあるとするなら何と質素で機械的なものであろうか。そしてそれを支えるのは同族内の固定化された空気であって、誰も何も感じずに手を下せるのは周りがみんながそういう風にしているからである。

何かの命を奪うにあたって確固とした意思がなければいけないとは思わない。しかし、俺はこいつと同居できないなと強く思ったし、小さな死への興味もあった。明確な意思による殺生と無思考的な殺生、どちらが怖いのだろうか。と考える。

嫌われ者のあいつは段々とその細く無駄に多い足を閉じ、動かなくなった。愛というものをついに知らず、俺の明確な意思によって殺害された。

こうした冷たい感情を誰にも向けることなく、誰からも向けられることなく生きていくにはどうすればいいか、しかしそれと無縁であれば幸せだと言い切れるわけでもなかろう、と思っているうちに約束に遅刻してしまった。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/58573_62559.html

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