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(悲観的)未来少年画報

どうもこんにちは。ちょっとしたボランティア、
略してちょボラです。

「digとは何でしょう」

春先はビル・エヴァンズの「Moon Beams」を探しにディスクユニオンを回ったりしていたのだが、高速でdigるオッちゃんたちを見て、やはり歴史のあるカルチャーにはそれ相応のファンダムがあるな、と感心してしまう。
彼らは中古のレコードを漁っているわけだが、『奥から手前に向けて縦に陳列された薄い物体と物体の間に次々と隙間を開けていく』という日常生活においてあまり登場しない指の動きをしているのでなかなかに面白い。何かに急かされているように手を動かし、ジャケットを瞬時に視認していくオッちゃんたちはさながら速読王のようであり、その作業に時給が発生しとんのか、と思うほどの職人技である。(早くああなりたいものだ)

これが従来の意味での「digる」なのだが、昨今は配信サービスが発達したことや、中古、レンタルサービスがよりカジュアルになってきたこともあって
より広義な意味合いで「dig」は捉えられてきている。言葉としては『まだ見ぬコンテンツを探索、又は深掘りしていく』という意味での用法が多い。近年の「シティポップ」の流行や、セル画時代のアニメーションの再評価などはこのムーブメントに寄るところが大きい。

ではなぜ我々は「digる」ようになったのであろう?
「dig」の効用とはなんであろうか?

初見 健一著【昭和ちびっこ未来画報】という本がある
この本は昭和の児童書、科学雑誌に掲載されたいわゆる「近未来」についてのイラスト付きの予想図を寄せ集め、現代の視点からのコメントと共に読むことができる興味深い本だ。

空飛ぶ車、人間を支配する人工頭脳、宇宙船での生活、マンモス野菜庭園…

現代を生きる我々の視点から眺めてみると、なんとなく掠っているものもあれば、予想が大きく外れているものと様々である。だが、全ての絵の根底にあるものは「未知なる科学への期待と不安」である。漠然とした「科学」というものへの万能感を画材に、未来の人間生活というものを想像力を用いて大いに描いていたことが読み取れる。

しかし、現在の我々にそのような突飛な未来を思い描くのは困難である。もはやテクノロジーの発達に関してはユーザーの思考が先回り出来るようなスピード感ではない。我々は昭和に生きた人々のように社会不安や不便を文字通り『機械仕掛けの神』に解決してもらうことを夢想することもできず、ただ現実と向き合っていくしかない。No Futureである。

その代わり我々に開かれたのは過去への扉だ。
古本屋や図書館を探し回らなくても【ブリタニカ国際百科事典】は家に届くし、80年前以上前のロバート・ジョンソンの録音を家から一歩も出ずに聴くことができる時代になった。その他膨大な人の営みが、巨大なまだ見ぬデータとしてインターネットに横たわっている。過去は未来と同じぐらい未知であり、可能性に溢れている。我々が総じてノスタルジーを求めるのもこうした理由があると思われる。

流行りの曲に飽きたら、自分の考えに孤独を感じたら、過去へ目線を投げかけると良いと思う。今と同じとはいかないまでも、何か似た境遇からヒントを与えてくれる人がいるはずである。

ここで「dig」が未来に対して考えを向けることと異なる部分は「我々が『遺物』の堆積の上に暮らしていること」である。

ことに文化的な文脈においては、今まで生まれ、そして人の目に触れた作品はは何かしらの「評価」や「解釈」を施されるプロセスを踏んでおり、それらの点は人々の意味体系の中において線で繋がれ、時代という面を構成する。
そういった営みの中からは未来には存在しない
「人の残り香」を感じることができる。
それらを読み取ることで、我々は人の心の動きや社会の有り様を多かれ少なかれ学ぶことができるのである。

これは学問においても通じる話であり、「巨人の肩の上に立つ」といわれるように、歴史へのアプローチなしでは未来への歩みは進められない。

「dig」とは過去への接続である。たった一枚のレコードを聞くでも、ヌーベルバーグの映画を見るでも良い。そこには最新のコンテンツを受け取った時と何ら変わらない驚きと興奮があり、未だ封を切られていないものが持たざる輝きがあるのだ。

私は、何かに「出会う」事なしにに心を震わせることは不可能だと思う。未来に行き詰まり、「歴史」と対峙した時、あーでもない、こーでもないと文化の地層を掘り起こし始めた時、コツリとスコップの先に当たった何かが景色を全部染めてしまうのかもしれないのだ。

と、昔の音楽を聴きながら考えたりする。



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