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Doors 第15章 〜 黒いヘモグロビン

 通勤の行き帰りにすれ違う人々の顔はどれもこれも険しかった.自分には想像もできないような大きな問題やプレッシャーを抱えているのだろう.右脳から飛び出ている緊張の糸は,糸というよりも鉄筋のようにピンと張っていた.その鉄筋が周りの人にも容赦なく突き刺さり伝染していくようだ.その表情は今にも崩れそうなくらいヒビだらけだった.にも関わらず次の日も平然と会社へ向かう.向かえる.

 どうしてだろう.一体何を考えているのだろうか.きっと仕事のことや家庭のことだけを考えて,自分のことは二の次三の次なんだろう.自分の意思ではないのにも関わらず流れるように動いている彼らのことが,まるで黒いヘモグロビンのように思えて言い表せぬ恐怖の渦に飲み込まれた.僕は素直に嫌だと思った.僕はあんな顔にはなりたくない.もちろんその人の人生を否定するつもりはないけれども,自分には無理だということがはっきりと分かった.赤い光を放つ存在でありたい.

 では,自分は一体何がしたいのだろうか.やはりその中心にあるのはいつだって音楽だった.音楽関係の仕事に就きたい.プロの演奏者として活動できたらベストだ.そう思い,数年間お世話になった会社を辞めた.当時交際していた方とは話し合った結果別れた.言い出したのは向こうからだが,その理由は今の関係だと心から夢を応援できないということ.悲しみは存在していたが,致し方ない気持ちと申し訳ない気持ちに蓋をされた.

 その気持ちを尊重するためにも僕の心の中から愛を捨てることにした.結婚も恋愛も友達と遊ぶのも諦めて夢に向かうと決めた.夢のために時間を使うと覚悟した.失恋の余韻もあったから寧ろそう思う方が楽だったのかもしれない.
 慣れてくると同性も異性も音のように同じ"人"として接することができるので,僕にとっては悪くなかった.音楽の技術も向上してきたのでそれも良かった.

 アルバイトではあるけれども,念願だった音楽関係の仕事に就くこともできた.主な業務は受付やバーでの作業だったがそれでもよかった.音楽に触れていながら働けるその環境は刺激的で得られるものは多かった.もちろん苦労することもあるが,この扉を開いてよかったと思っている.

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