先天性風疹症候群とともに生きるー平成元年に生まれた聴覚障害者による、風疹の過去・現在・未来についてのちょっと長い手紙
はじめに
みなさんは先天性風疹症候群という病気をご存知ですか。妊娠中の女性が風疹に感染することで、赤ちゃんにも感染してしまい、目や耳、心臓などに症状が出ることや、MRワクチン(麻疹風疹混合ワクチン)によって予防できることはニュースなどを通じて知っている人もいるかもしれません。
でも、赤ちゃんに症状が出るというだけでは、具体的に、その子がこれからどのような人生を送っていくのかということについては、なかなか想像しづらいのではないでしょうか。
自分の周りで流行が起きていないために、風疹ワクチンってそもそも必要なのとか、なぜ不妊治療の最中に避妊が必要な風疹ワクチン接種を勧められるのかとか、疑問に思っている方もおられるかもしれません。
2013年の風疹大流行では、全国で1万人を超える感染者が発生し、45人の病気や障害をもった赤ちゃんが生まれ、11人が亡くなりました。2018年にも流行が繰り返され、令和時代に入ってからもCRSで生まれた赤ちゃんがいます。
流行が起きた大きな原因は「ワクチンギャップ」。風疹ワクチンの公的な接種制度がはじまった当初は、女子中学生のみに接種が行われていました。当時、接種を受ける機会のなかった男性は風疹ウイルスへの抗体を持っている人の割合が低いことがわかっています。
働き盛り世代の男性を中心に流行が起こり、職場を通じて家庭にウイルスが持ち込まれ、妊娠中の女性、さらにお腹の中にいる赤ちゃんにまで影響が及びました。一方で、小さなこどもは定期接種を受けており、こどもの感染は少なくすみました。
大人のあいだでの流行に対する対策が必要ということがわかったのが、2013年の流行であり、対策がまだ不十分であるということを思い知らされたのが、2018年の流行であったというわけです。
残念なことに、日本では「早期に先天性風疹症候群の発生をなくし、2020年度までに風疹排除を達成する」という目標をいまだ達成できないまま東京オリンピック、パラリンピックの日を迎えてしまいました。そしてそれは2023年の今もなお達成できていません。
私が先天性風疹症候群という病気を持って生まれたのは、1989年の春のことでした。心室中隔欠損症と、白内障、感音性難聴を持って生まれました。先天性風疹症候群の特徴的な症状が揃っていたことになりますが、このうち心臓については自然治癒したので、いま残っている症状は目と耳だけです。
2013年から、風疹の流行をなくしたい、同じ病気で生まれる子をなくしたいという私の気持ちをみなさんにどうにか伝えたいという願いを込めて、私自身のライフ・ストーリーをウェブ上に公開してきました。
2023年2月4日の「風疹の日」、今日この日に合わせて2023年バージョンをおお届けします。(2021年10月バージョンはこちら:風疹と私の30年 – 先天性風疹症候群で生まれて大人になるまで –– withCRS)
なお、症候群ということからも分かるように、症状のでかたは人それぞれ異なります。産科医療のリアルを描く漫画『コウノドリ』に出てきた先天性風疹症候群の女の子は、心臓病と視覚障害という組み合わせでしたし、聴覚障害だけを持つ人も多くいます。
これからする話は、あくまでも一つのケースとして捉えていただきつつ、風疹の予防の大切さを感じていただき、SNSなどで周りの方にシェアしていただけますと幸いです。
「サバイバー」としての人生を歩むことが決まった日
サバイバーとは「生存者」のことです。サバイバルゲームが好きな人ならすぐにイメージが思い浮かぶでしょう。医療関係者の方であれば「がんサバイバー」という言葉を知っている人もいるかもしれません。
ここでは風疹ウイルスとたたかい生き残った者という意味で、日本では「当事者」が使われることが多く、サバイバーと名乗っているのは、たぶん、私一人だけなのではないでしょうか。海外のコミュニティで“survivor”という言葉を使っているのを見かけたのがきっかけで、このことばを使うようになりました。
私が「サバイバー」となったのは、平成元年3月末のことでした。妊娠中には大きなトラブルはなく、出産も順調にすすみ、待ちに待った我が子の対面のときがやってきました。ところが、理由を告げられずに別室へ連れていかれることになってしまったのだそうです。
NICUでの面会は一日に一度保育器越しで、4日目に心臓に異常があるとの説明を受けました。詳しい検査の結果、「心臓に小さな穴があいています。自然に穴がふさがる可能性が高いので経過観察でよいでしょう」ということになりました。
あなたが母親や父親の立場だったらどんな気持ちになるだろうかと想像してみてください。検査の結果を待っているあいだ母と父はどんな思いでいたのだろうと思うと胸が張り裂けそうになります。母は「あの日のことは今でも覚えていて、30年たった今でも落ち込んでいる…」と、そのときの心境を打ち明けてくれたことがあります。
結局、治療を受けることなく2歳か3歳のころには自然に完治し、命に別状はなくすみました。もし心臓病が重かったとしたらこの世に生まれてこれなかったかもしれないし、ワクチンを打つ前(定期接種は一歳から)に麻疹で入院してもいるので、麻疹やRSウイルスなど他の感染症で命を落としていた可能性もありました。
とにかく、桜の花が街を埋めつくしていたあの日から、風疹ウイルスとのたたかいから生き残った「サバイバー」としての人生が始まったのです。
昭和時代から令和時代まで繰り返されてきた風疹流行
私は、1987年、昭和時代の最後に起きた風疹大流行の世代です。この流行で風疹にかかった人は東京都内だけでも3万人。この数字は小児科の医療機関の一部(定点)からの報告数であり、実際には10万人にのぼっていたと考えられます。
当時、20代から30代の女性は、予防接種を受けていないか、女子中学生のとき一回だけという人がほとんどです。男性への接種は行われておらず、2019年になってようやく第5期定期接種というかたちで接種を受けられることになりました。
今でも風疹は子どものあいだで流行る病気とのイメージがありますが、実際にはそうではありませんでした。小さなこどもだけでなく、大人のあいだでも流行が起きていて妊婦さんに感染してしまった例が少なくなかったのです。
全国の聾学校を調査した結果、1987年から89年までの間に少なくとも176人が先天性風疹症候群(CRS)で生まれていたことが分かっています。CRSでも難聴を持たない子がいますし、難聴を持つこどもが全員聾学校に入るわけでもないので、実際には、その2〜3倍いたのではないかと思います。
2013年の流行では、一万人程度の流行、たったの45人で大騒ぎする必要はないという声もあがりましたが、なぜあれだけ騒がれたかといえば、過去には、もっとひどい流行が繰り返され、そのたびに、風疹によって赤ちゃんの命が奪われ、あるいは、後遺症を持って生まれてきたからです。
さらに、風疹それ自体も、麻疹ほどではないにしても、流行の規模が大きければ一定の割合で重症化してしまう人がおり、その人の人生を大きく変えるきっかけになることがあります。ある大企業で今は会社を支える重責を担っている方が、自身の挫折体験の一つとして、30代のころに風疹にかかり、全身の関節が動かなくなって3ヶ月入院したことを挙げていたことには、たいへん驚きました。
もしワクチンのない、自然に成り行きを任せる時代に逆戻りしたとしたら、いったいどんなことが起きているでしょうか。
「もし風疹と知っていたら産めなかったかもしれない」
母がつけていた記録によれば、1988年の夏、妊娠に気づいたばかりのころに、発疹がでて、耳の後ろのリンパ節が腫れていることに気づいたそうです。いったんは「風疹にかかってしまったかもしれない」と不安になったものの、結局、風疹かどうかよくやからないまま出産の日を迎えることになります。
大人になってから、もし知っていたらどうなっていたのかな?と思い切って尋ねてみたことがあります。母は「もし風疹と知っていたら産めなかったかも」と言っていました。
症状に気づいたときにもっときちんと調べていれば、はっきり診断がついて時間をかけて心の準備ができたはずです。その一方で、この子を産み育てるかどうかという辛い選択を迫られたにちがいありません。
今も昔も風疹にかかったことが分かると中絶を迫られることがあります。『聲の形』という漫画の第32話「ガムシロ」にも、3歳で難聴がわかり、義理の家族に母親が風疹にかかったことを責められて離婚を迫られるシーンがありました。
風疹の流行期には、流産や中絶の件数が増えることは、統計データからも明らかになっています。アメリカで起きた、1964年の大流行のときには、中絶の権利を求める運動にもつながりました。いまアメリカを分断している政治的な問題にも風疹がかかわっているのです。(洋書ですが、“Dangerous Pregnancies: Mothers, Disabilities, and Abortion in Modern America”という書籍に詳しく書かれています。)
風疹と中絶をめぐる問題は、ひじょうに重いテーマですが、母子感染症という性質上、このことに触れないわけにはいけません。さらに、医療や福祉にかかるコストも無視できません。NICUのベッドも限られている中で、昔のように年間100人のようなペースで生まれるとすると、他の赤ちゃんの命にも影響がおよんでしまいます。
この事実に対して、私ができることは「あのとき知っておけばよかった」「ワクチンを打っておけばよかった」と後悔する人を減らすことだと思います。お母さんが風疹に感染したとしても、もちろん赤ちゃんには生まれてきてほしいし、その人らしく生きていけるような社会を作りたいなと考えていますが、無責任に産んでも大丈夫とは言えることではありません。
そもそも赤ちゃんを産むか産まないかどうか悩まずにすむように、風疹の流行そのものをなくすのがベストな選択肢なのではないでしょうか。
次々と明らかになる障害、あきらめずに進んだ先は
風疹ウイルスが妊娠中のお母さんを通じて、赤ちゃんに感染することで起こる先天性風疹症候群(CRS)。ウイルスが襲うのは、心臓だけではありません。
目や耳などにも侵入し、体の中のあちこちを荒らしまわります。その結果、心臓病、白内障、感音性難聴といった典型的な症状が生じ、網膜症や精神発達の遅れがみられることもあります。これらの症状が全て一度に出るというわけではなく、程度も人それぞれ異なります。
生まれたその日に心臓が悪いことがわかったあと、その次にわかったのが目の異常です。両親が両目が白く濁っていることに気づいたのは生まれてから数週間たった後のことでした。あわてて病院に行くと白内障と診断され「すぐに手術しないと失明する」と医師に言われたそうです。
生まれたばかりの我が子の目にメスが入り、しかも全身麻酔をかけなければならないことにショックを受けたといいます。生後3ヶ月で手術を受け1ヶ月のあいだ入院しました。
心臓と目が悪いことから、先天性風疹症候群なのではないかと医師たちは考えたようです。そこで聴力検査(ABRという脳波による聴力検査)を受けることになりました。その結果は「重い難聴であり、片方は全く聞こえていない」というものでした。
大人になったいま、補聴器をつけているのは聴力が残っている左側だけです。全く聞こえていない右耳は補聴器を使っても聞こえません。
当時は今のようにインターネットで簡単に調べることもできないので、目も見えない、耳も聞こえない我が子をこれからどうやって育てていけばいいのだろう?私たちに育てられるのだろうか?両親は絶望したそうです。
そんな絶望の日々のなかで、少しずつ希望の光が見えはじめます。手術のおかげで目に光がとどき、徐々に視力が出てきてペンライトの光を追ったり赤や黄など刺激の強い色を区別できるようになりました。
目に光が入り人への関心が芽生え始めると人形のように無表情だったのが、きゃっきゃっと笑うようになりました。補聴器をつけると表情がさらに豊かになりました。はじめて補聴器をつけたとき、私は突然の大きな音におどろいたそうです。
両親にとって、その出来事は暗いトンネルの先に光がみえた瞬間でした。絶望のトンネルを抜けた先は、音と光のある世界だったのです。
“Hello, World.”—「こんにちは、世界」と言うために選んだ道
C言語やJava言語といったプログラミング言語の勉強では、"Hello, World."という文字を出力するプログラムを作ることからスタートします。なぜだかよく分からないけど、プログラミングの世界では、昔からそういう習慣があります。
聴こえない赤ちゃんが世界に向かって「こんにちは」と言うのはたやすいことではありません。
赤ちゃんがはじめて補聴器や人工内耳をつけたときにおどろいたり、笑ったり、あるいは泣いたり、リアクションをしている動画を見たことがある人もいるでしょう。実は、あのリアクションは、ある日突然入ってきた音という刺激に対しての反応なのです。音が聴こえるようになったからといって、すぐに話が聞こえるようになるわけではないのです。
一体どうやって「ことば」という武器を手に入れるのか。全体的な流れは、大人が英語のような第二言語を学ぶのとおなじです。発音を練習して、単語を覚えて、文法を身につけて、あとは実践あるのみ。ただし「ことば」という概念がないので、それをどうにかして身につけさせようと、昔からいろいろな方法が考え出されてきました。
それが「聴覚口話法」といわれるもので残された聴力をなんとか活用して、耳で聞いて、口で話せるようにしようという方法で、聴こえない子のほどんどはこのメソッドで教育を受けます。もちろん、「ことば」を手に入れるルートは複数あり、手話でことばを手に入れる道を選ぶ人もいます。
私の場合は、聴覚障害だけを持つ他のこどもに混じって「聴覚口話法」で日本語を学んで、聴こえる子と一緒に地域の学校で学ぶルートを進みました。
その理由の一つに、聴覚障害だけの子とは違って、目から入る情報量が少ないぶん発達が比較的ゆっくりな子であったため、他の子のペースに合わせることができないということで、聾学校には受け入れてもらうことができなかったという事情がありました。
それならば、聴こえる子供が通う学校で、健常者だけでなく、ダウン症などの他の障害を持った子、心臓病などの病気を持った子、日本以外の国からやってきた子、いろんな子が混じっている多様性のある環境のほうが、かえって良いだろうという判断がなされたのかもしれません。
余談ですが、聾学校に進まず、地域の学校に進むことはインテグレーション、略してインテといいます。難聴の人同士の自己紹介で「私はインテ出身です。」という人がいれば、その人は、聾学校ではなく聴こえる人の学校で学んだことを表します。
もちろん、先天性風疹症候群の子のための特別な教育プログラムというものはありません。ひとりひとり症状のでかたが違うので、画一的なやり方というのはできないのです。私のように聴覚障害児のための教育を受けて、目の見えづらさについては特別なフォローがほとんどなかった人もあれば、聾学校と盲学校の両方を経験した人もいます。
子育てには正解がないといわれ、さまざまな意見があるなかで、結果的には自分にあった道を選んでもらえたのではないかと思います。
音が聴こえるようになったその日から大冒険がはじまる
RPGの世界で例えるならば、音が聴こえるようになったその日からが冒険のはじまりです。補聴器に慣れるまでが、チュートリアル編です。補聴器をつけるのをいやがる子もいて、チュートリアル編からなかなか抜け出せないこともあります。私はメガネのほうが先だったので補聴器はいやがらずにつけることができました。
ようやく本編がスタートしたあとも、草むらで弱いモンスターを倒し続ける日が続きます。序盤のレベル上げにはすごく時間がかかります。聴こえないこどもにとって日本語を話したり聞いたりすることは容易なことではありません。魔王の城にひそむラスボスを倒して、平和な世界を取り戻すまで年単位の時間がかかるものなのです。
病院や聾学校の乳幼児相談室などには、同じ聴こえないこどもたちと一緒に学ぶ教室があります。教室では、先生とマンツーマンで発音の練習をしたり、グループで遊びながらコミュニケーション能力を身につけていきます。
遠足やクリスマス会などの特別なイベントは、経験値ボーナスを得る絶好のチャンスです。もちろん楽しいイベントなのですが、ふだんテレビとかでしか見ないような、大きな動物や水の中の生き物を見て、ボキャブラリーを増やすという目的も兼ねていたのです。
動物園で「向こうを見てごらん、キリンさんだよ、首が長いね」「わー、ほんとだー」「あっ、あそこに鼻の長い動物がいる。あれはゾウさんだよ」というやりとりをしながら、新しい単語を学びます。
家に帰ったら、絵日記を書いて、次に教室に行ったとき、絵日記の内容を友だちの前で発表します。「昨日、動物園に行ったんだよ。ゾウさんの鼻はこんなに長いんだ。長い鼻でりんごを食べていたんだよ」「ぼくはパンダさんを見たよ」と一人ずつお話をします。
目で見て、体験して、それを他の子に共有することで「キリン」「ぞう」ということばが頭の中で立体的なイメージに変換されます。ことばのネットワークがひろがっていくにしたがって、目の前にいなくても「キリンが二匹いる」ということばだけで頭の中にキリンがいる様子が生き生きと描かれるようになっていく。
山や谷をいくつも乗り越えていくうちに少しずつ世界地図が拡がっていきます。人との出会いや新しい経験が成長の糧となり、ことばという武器を手に、たくましい勇者へ育ってゆくのです。
話せるようにはなったけど、会話はまだまだ一方通行
私には小さいころの記憶があまりありません。横浜に引っ越してきたのがたしか4歳のころで、東京(あと群馬)にいたころの記憶は全くないのです。そういうわけで、世界にむかって「こんにちは」と言うために、何をどうしていたのかはさっぱり覚えていないのです。
そのころは、地元の幼稚園に通い、週に一度は都内にあることばの教室に通う日々でした。ことばの教室では、クラスでの集団遊びと個別の発音練習がありました。発音の練習には「ばばま表」というものがあり、1929年に発表されたものが令和のいまでも使われているようです。うまく発音できると花丸をもらえる仕組みで、家でも練習したそうです。
当時は、手話が今ほどには社会的に認められておらず、とにかく聴こえる人に近づけようとするやりかたでした。今の30代後半以降の世代の人は、補聴器をつけても音がほとんど聞こえないような人であっても、不明瞭ながらも「話す」ことはできる、という人がほとんどです。「聞く」と「話す」はセットで語られがちですが、全く聞こえなくたって「話す」ことはできるのです。
とくに発音がきれいかどうかが先生や親の一番の関心ごとだったらしく、大人になっても他人とくらべられることがあります。親への刷り込みというか、プレッシャーというか、そういったものが強かったのだなと思わずにはいられません。あのころは親も子も必死でした。
その発音がどれくらいきれいだったかというと、幼稚園のお友達には「外国語を話せるんだね、すごいね」と言われてしまったことがあります。慣れている人でなければ分かりづらい声で、他のお友達がしている話の内容もよく分かっておらず、会話はほとんど一方通行だったのかもしれません。
おそらく「ことば」という木の棒を持って振り回すのがやっとで、くっきりした姿が見えず、おぼろけながらことばが浮かぶ、というような感じだったのではないでしょうか。それでも、両親も私もそれなりに頑張ったと思います。
ことばで広がってゆく世界、立ちはだかる見えない壁
小学校に入ると、家を中心にしていた世界が地域社会へと拡がりはじめました。そこは目がよく見えて、耳が聞こえる人が多数派の世界です。クラスの中で私一人だけが目が見えづらく、耳が聞こえないので、勉強だけでなく人間関係づくりにもとても苦労しました。
もし、いま「目が見えなくなるのと耳が聞こえなくなるのとどちらかよいか選べ」と言われたならば、目が見えなくなるほうを取ると思います。
確かに、遠くのものが見えづらい、人や物の動きが分かりづらい、光がまぶしいといったような状態で、体育、とりわけ球技はとても嫌でしたし、厚いメガネをしていて悪口を言われることもあったのですが、それよりも聴こえないことで他の子とのコミュニケーションを取りづらいことのほうが大変でした。
授業の中でも、グループ学習など、一対多の会話場面は大きな壁になりました。一対一の会話ならなんとかできても、相手が二人以上いるととたんに会話が分からなくなってしまう特性があるので、他の子たちとのコミュニケーションを通して自分以外の人の考えを知り学びを深めていく、という経験をなかなかできずにいました。
教科書に書いてあることは一応理解できたし、授業そのものにはついていけるけれど、教科書の本文に書かれていない「行間」が埋まらないままで、大人になったあとで振り返ると、ノートテイクなどのコミュニケーションのサポートなしでよく頑張ったなと思います。
学校に行っても、聴こえるこどもと同じように学ぶ機会を得られない、という見えない壁。それでも、学校に行けたのは、通級の先生のおかげでした。嫌なことがあっても辛いことがあっても、話を聞いてくれて、私のことをまるごと受け入れてくれて、そんな大人が一人いたことが、ずっと心の支えになりました。
みんなと同じように、耳で聞いて、目で見たかった
小学校のあいだは、どちらかというと、聞いたり話したりする能力を身につけることに全力をあげていました。他の人と同じようにできるようになりたいと思い、一生懸命聞いて話すようにしていました。「あなたは聞こえなくて見えづらいのだから他の人の数倍努力しなければいけない」「聞く努力が足りない」と先生から言われたこともあります。
中学生になると、見えない壁とのたたかいの先にリミット(限界)が見えはじめました。理由のひとつは、思春期になって、まわりの子たちの声が低くなり聴こえづらくなったことです。自分自身も、男性ほどではないのですが、低くなってしまい、自分の声もはっきり聞こえなくなりはじめました。
先生や両親は、聞こえないことを上手に説明して配慮を求めなさいとアドバイスしてくれましたが、聞こえない世界にいる私には聞こえる世界のことは分かりませんし、聞こえる世界にいる人も、音のない世界は想像もつかないので、けっきょく「聞こえない」ということそのものが自分でも分からなくて、うまく説明することはできませんでした。
「聞こえる」とか「見える」という多数派がもっている能力に対して、自分に残されたわずかな聴力、そして白内障の目が、どれだけの情報格差をもたらしていて、さらに多数派の人たちが他者との関係性をどう築いていくのかということも、そのころの私にはよく理解できなかったのです。
本や漫画を通して知った「聴こえる世界」
私は本を読むのが好きで、新学期に教科書をもらうとその日に全て読んでしまうタイプの子でした。本さえあれば、魔法の国に行ってハリー・ポッターのように魔法を使うこともできますし、日本から一番遠い国の一つであるブラジルの人々がどう暮らしているかも知ることができます。
とくに「ハリー・ポッター」シリーズが好きで、2000年ごろから読み始めました。第7巻が完結したのが大学生になったばかりの時期だったので、ハリーたちの成長と自分の成長を重ねながら読んでいました。大人になったあとでも読み返すことがあるのですが、読むたびに新たな発見があります。原作のほうが面白いと聞いているので、いつか第7巻まで原作を読破したいなと思っています。
本だけでなく、漫画やアニメ、ゲームも好きでした。ポケモンの赤緑世代なので、今年(2023年)、サトシがアニメのポケモンを卒業するのにショックを受けてしまう、そんな世代の一人です。アニメは、字幕を表示する専用の機器を買ってもらって見ていました。映画も「ミュウツーの逆襲」あたりからは見ていて、配給会社に「字幕をつけて」というお願いのはがきを送ったような記憶があります。
本や漫画にある登場人物の心の声やひそひそ声の描写は、ふだん耳から得られないとても貴重な情報でした。
「オノマトペ」も、耳からは入りづらい情報で、雨を表すオノマトペにも「ざあざあ」「しとしと」「ぱらぱら」といったいろいろな表現がありますが、そもそも雨の音の違いが分からず、なんでこんなに種類があるのか理解不能でした。それが、物語のなかで人物の表情やまわりの雰囲気のイメージが表現されていれば、なるほどこういうときに使う言葉なんだなと思えるのです。
聴こえる世界の側にいる人がどう考え、どう行動しているのかということは、本や漫画から少しずつ学びました。実生活でのコミュニケーションでは、親子の間にさえ隔たりがあり、マリアナ海溝のような深い溝があるのですが、自分が聴こえないとか見えづらいとか関係なく、自由に異なる世界を旅することのできる楽しさがありました。
両親も含めて聴こえる多数派がすりガラスの向こう側にいて、私はガラスに隔てられた向こうの世界には行くことができないけれども、本を通して違う世界のことを知ることができたことで、生まれたときには闇と静寂の世界にいた私の世界が一気に拡がりはじめました。
ネットで耳のハンデなくコミュニケーションできる楽しさを知る
中学には受験をして入学しましたが、新しい環境にうまくなじめず体調をくずして不登校を経験しました。障害の影響で人とコミュニケーションをとる機会が少なく周囲とくらべて心の成長が遅かったのだと思います。
我が家にインターネットがやってきたのは中学のころで、学校に行けていなかった私にとって、パソコンは家にいながら人とつながることのできる魔法の箱になりました。
2000年代のはじめは、今のようにブログやSNSはなくてHTMLという言語を使ってホームページを手作りしていました。日記を書いて、それをアップロードして、掲示板やチャットルームを作って交流を楽しんでいました。そのころはまだ動画コンテンツは少なく、耳のハンデ関係なしにテキストだけで誰かと話せるののが楽しく夢中になりました。
最初にホームページを作ったのが2001年12月13日。全くアクセスがなくて自分だけがアクセスカウンターを回していました。今のようにSNSで川の向こうから面白いテキストや衝撃的なニュースが流れてくることはなく、ただ静かに全世界に向けてポエムを公開していたというわけです。
当時は、自分の足で集めた面白いテキストやニュースを紹介するサイトが情報のハブ的存在となっていました。私自身も当時ニュースサイトを運営していてコンピューターに関連する話題を中心にとりあげていました。
そこそこアクセス数もあり手応えを感じていて楽しかった一方で、学校の外にある多様な価値観があることを知ることで、アイデンティティが揺らぎ始めました。自分っていったい何者なんだろうという大きな疑問がうかびはじめたのです。
「もし耳が聞こえていたら、もっともっと人と楽しく話ができるんだ」ということを知ってしまったがゆえに、現実世界の生きづらさが目に見えるかたちで、より明確にあらわれたのかもしれません。
魔法の箱を手に入れたことがきっかけで視野が広がりつつも、自分中心に物事を見ていたのが急に他者の視点が入ってきたことで自分の立ち位置がどこにあるのかが分からなくなっていったのが中学時代だったと思います。
手話を知らなかった私が聴こえない世界に飛び込んで得たもの
高校は、通信制を選びました。いわゆるサポート校というところで、通信制ではあるものの全日制と同じようなライフスタイルを送りました。環境が変わったことでスイッチが入り、いろいろ大変なこともあったのですが、リアルの生活はそれなりに充実していました。3年生のときは欠席日数もノロウイルスで休んだ1日か2日だけで学校には楽しく通えていました。
大学は好きなコンピューターのことが勉強できて、あこがれの一人暮らしもできるという理由で筑波技術大学を選びました。目や耳に障害を持つ人を対象とした大学で、ここで手話に出会い、手話を使うようになり、アイデンティティ的にも「ろう者」へと生まれ変わりました。
とはいっても手話を知らないままいきなり聴こえない世界に飛び込んでしまったので、最初は苦労の連続でした。聴こえない人のなかで、見えづらいハンデがあるので、なんでここに来てしまったのだろうと後悔したこともありました。けれども、聴こえない世界に飛び込んだことで、たくさんの聴こえない仲間と出会うことができました。
今までは、聴こえる世界の人たちに近づくために、頑張って聞きなさいとか、きれいに発音しなさいとか、親や先生の教えを一生懸命守ってきました。大学生になって以降は、聴こえない世界に生まれた聴こえない人間として、自分の道を歩もう、そう決心させてくれたのが手話と聴こえない仲間たちでした。
北欧のろう教育に関する研修や中国の長春大学へ行ったり、他大学の聴覚障害学生を支援する部署で事務補助を行うなど他の大学ではできない経験も得ることができました。そこでも、他大学や海外の聴こえない人たちと出会い、視野を拡げることができました。
今思い返すと、学業の面ではもっと努力するべきだったという大きな反省がありますが、聴こえない自分に出会って、揺るぎないアイデンティティを手に入れることができたのが一番の収穫だったと思います。
大人になって白内障と緑内障の手術を受ける
先天性白内障の手術は2段階あり、赤ちゃんの時に水晶体を取り出す手術をしたあと、大きくなってから眼内レンズを挿入する手術を受けます。二次挿入手術を受けたは、大人になってからのことでした。
手術をした理由は、メガネと補聴器の両方を外してしまうとコミュニケーション手段が非常に限られたものになってしまうからです。補聴器はなくても筆談なり手話ができるけれど、メガネがないと一人では動けないし会話もできないので、ならばメガネのレンスをまるごと目の中に入れてしまえという発想に至りました。
もちろん視力自体が上がるわけではないので、見えづらさは大きく変わりませんが、メガネや補聴器がなくても周囲とコミュニケーションをとれるようになりました。温泉に入るときも誰かのサポートを受けずに一人で入れて、お湯に浸かりながら手話で話したり身振りで伝えることもできます。一人旅も気軽に行けるようになりました。
先天性白内障では、他にも眼の発達異常を伴うことがあり、緑内障のリスクがあることが知られています。もしも眼圧が上がって、視野欠損が進行してしまった場合には、緑内障の手術を追加することになります。
私は11歳で眼圧が上がり始めて、20代後半で右目のチューブシャント術を受けました。チューブシャント術というのは、日本では、2012年に保険適用された比較的新しい手術で、目の中にデバイスを埋め込んで、目の中の圧力が上がりすぎないように調整してくれ、一定の圧力に達すると目の外に逃す手法です。
結果としては、視野のほうは進みがゆるやかになりました。ただ、異物が入っている違和感は少しあります。この進み具合だとどうせいつかやるだろうとは思っていたので、むしろホッとしました。左目は視野が正常に近いので、まだまだ先の話ですが、そのときはもう少し違和感がないデバイスを入れられるといいなと思います。
白内障の手術や緑内障の手術、どちらも風疹にかかっていなければ、やらずに済んだかもしれないものでした。両方とも新しい治療法がどんどん出てきていて、後に生まれたCRSのこどもたちがより良い治療が受けられることに期待しています。
2013年、風疹が大流行していることを知る
眼内レンズを入れたころに風疹が流行しているということを知りました。風疹症候群の子をもつお母さんや風疹症候群で生まれた大人の方とも出会いました。
私自身が風疹で聴こえなくなったということは小学生のころには母親から聞いていましたし、「遙かなる甲子園」のドラマを見たこともあって、過去に風疹が流行っていたことは知っていましたが、大人になったあとも流行を繰り返しているとは知らずショックを受けました。
2007年ごろには、首都圏の大学生のあいだで麻疹が流行して大騒ぎになった経験をしていますが、そのときはまだ麻疹の裏にかくされた風疹流行のリスクにまで気づく機会がなかったのです。
そこで、風疹や先天性風疹症候群のことを知ってもらおうとウェブサイトで情報発信をはじめました。風疹という感染症の怖さを私自身のストーリーを通してリアルに伝えていきたいなと思ったのと、自分より後に生まれた先天性風疹症候群でうまれた子たちのその後の人生を支えていきたいという気持ちがあったからです。
この流行をきっかけに過去の流行や、CRSの子を持つ家族やCRSで生まれた人たちに出会い、みなさんの流行をなくしたいという想いに触れつつも、一方で、ツイッターなどのSNSを中心に感染症やワクチンに関する不正確な知識が広まっていることに危機感を感じています。
たとえば、原因が風疹でなくても先天性風疹症候群と診断できる、症候群という病名は「この症状とあの症状がある」=〇〇症候群とつけるだけで、こんないい加減な病名はない、などと言っている人がいます。それも、医師免許を持っていて、ベストセラー本を何冊も出しているような人です。当事者の存在を丸ごとなかったかのようなデマに対しては、我ここにありと言い続けることで対抗するしかないと思っています。
反ワクチン活動の大きな声にかき消され、ワクチンで防げる感染症を防いでほしいっていうこちらの声はなかなか届かないのには無力感を覚えることもあります。流行が起きていないときにこそ知ってほしいのに、麻疹や風疹の流行が起きたあとになってみんな慌て出して、接種希望者が殺到してしまう。そうではなく、実際に病気に罹る前に、後遺症が残ったり、命を失う前に、病気のことやワクチンで防げるということを、知ってもらいたいです。
2013年の風疹流行では、「全国からかき集めてたったの45人」といった人もいます。45人いれば45通りあるのです。一人一人の命の重みを持った、現実の悲しみや苦しみが45通りあるものなのです。ワールドカップのクロアチア戦では、奇跡のゴールが諦めないことの大切さを教えてくれました。三笘選手と同じように、諦めずに、風疹の過去・現在・未来のことを伝え続けていきたいなと思っています。
「できないこと」ではなく「できること」に目を向けたい
2016年は、人生の大きな節目でした。大学を卒業して数年、就職なんてできるんだろうかという不安な気持ちが強く、一歩踏み出すのに時間がかかってしまっていたところに、障害者向けインターンシップ・プログラムを知って、なんだか面白そうだから申し込んでみようと思ったのがきっかけでした。実際に社会人生活を始めてみると、3日ほどで新しい生活に慣れてしまい、自分でも驚きました。
小さいころのおもちゃといえばワープロでした。当時ワープロは高価なものでしたが、父が博士論文を書くために使っていました。それが数十年後の未来の学びや仕事につながるとは誰が予想できたでしょうか。購入したものでした。キーボードの使い方は分からなかったけど、押すと文字がぽんと出てくるのがおもしろかったです。
社会人になってからの最初の壁は、学生時代あまり意識していなかった目の病気でした。業務では一日中目を使います。ワードで文書を作成したり、エクセルで細かい数字を扱う仕事もあります。コンピューターの操作自体は得意で、障害のない人にも負けない自信があるのですが、学生のころよりも今のほうが眼精疲労を強く感じます。
短時間勤務からスタートし、大きいディスプレイを貸与してもらったり、作業を少しでも効率化するために工夫を積み重ねて疲れにくい環境を作っていきました。長時間通勤には悩まされましたが、フルタイムにもすんなり移行できましたし、苦手意識のある仕事にも積極的にチャレンジするようにしました。そのおかげで「なんだ、やればできるじゃん」と自信がつきました。
仕事で一番大変だなと思うことは会議です。聴覚障害を持つ人に仕事で困っていることはとアンケートをとると、第一位にあがるのは、やはり会議なのではないでしょうか。2020年に琉球新報社から「聴こえない世界に生きて―沖縄風疹児55年間の軌跡」という本が出版されたのですが、その本を読んでみると、世代は違えど、仕事をする上での悩みは今の私たちとほとんど変わらず、共感する部分が多々ありました。
私自身、小学校時代からグループワークなどに参加しづらく、会議には苦手意識があります。話している人の口を見て、耳で聞くときには全神経を張り詰めて集中しているので、一日に何件もあると疲労感を感じます。でも、人と話すのはそこまで嫌いではないので、他の人とのコミュニケーションを取りたい、積極的に参加したいなという気持ちがありました。
そこで入社してまず取り組んだのが、社内に音声認識ソフトを使って、声を文字に変えるソフトを社内で使えるような仕組みをつくる仕事でした。全社レベルの大きなイベントでも活用できるようになりました。一方、小規模な会議では、クラウド上でドキュメントを共同で編集できる仕組みを使いリアルタイムで議事録を作成する方法を取りました。
また、コロナ禍の今ではなかなか難しいことではありますが、会話がよくわからなくてもランチタイムはなるべく同僚と一緒にとって雑談をするようにしていましたし、仕事帰りには終電間際までよく飲みに行っていました。
障害のためにできないことがあり、聞こえる耳があったらできたのにと悔しい思いをすることも、学生のころに比べると増えました。一方で、障害のあるなしにかかわらず、誰もが日常的に小さな失敗をおかしては、それをチームでカバーするという場面を何度も経験するようになった今では「できないこと」よりも「できること」に目を向けようと思うようになりました。
障害のあるなし関係なく、誰もが得意分野や不得意分野を持っていて、それをお互い支えあってひとつのチームになるのだと思います。自分の得意分野をもっと広げてチームに貢献できるように今後も努力を重ねていきたいと思っています。
聞こえる世界と聞こえない世界、二つの世界で生きる
私は普段、聴こえる世界と聴こえない世界という二つの世界を行き来しながら生活しています。そして両方の世界で人とつながることができます。聴こえない世界で使われることばは手話です。手話があれば聴こえない人同士でも会話ができます。私にとっては聴こえない世界が「ホーム」で、聴こえる世界が「アウェイ」です。
ホームグラウンドでリラックスしながら手話で話すのはとても楽しいです。手話は、単なるコミュニケーション手段にとどまらず、聴こえない私たちが互いに直接気持ちを伝えあったりして、かけがえのない思い出をつくるものだと思っています。特に楽しいのは聴こえない仲間と旅行に行くときです。お店の方がメニューを手書きしてくださったり、ときには手話を使ってくださったり、旅先で出会う人々のあたたかさを感じます。
聴こえる人にとっては、聴こえないということは怖いとか不安とかそんなイメージを抱くかもしれません。私にとっては聴こえない世界のほうがむしろ安心できるので、一人でいるときは補聴器を外しています。
聴こえない状態のときは、音に意識を向けなくてもよくなり頭が休まりスッキリします。私の感じ方では、補聴器を外して街を歩くときには、左右の視野が広がり、遠くの景色に奥行きが出て色も少し濃くなる気がします。暑い日は余計に暑く、寒い日は余計に寒くなります。
デザインをする上で大切なのは、引き算と聞いたことがあります。五感のうちの一つを遮断すると、本質にフォーカスしやすくなるのかもしれません。
実際には全く無音というわけではなく、耳鳴りが聴こえています。もし、生まれつき音を聞いたことがなかったらどうなるでしょうか。音というものがどういうものか分からないので、耳鳴りもしないようです。私自身も、耳鳴りがするのは左側だけで、生まれてから音を聴いたことのない右側からは音がしません。音そのものが存在しない世界は、私にとっても未知の世界です。
聞こえないということはネガティブにとられがちですが、二つの世界の違いを感じられるということは、人生を楽しむ要素が二倍あるという見方もできると思っています。
テクノロジーの力で、世界をもっとアクセシブルに
実は、視覚障害と聴覚障害には一つの共通点があります。それは、たんに聴こえない、見えないというだけでなく、音声や視覚を通じた情報にアクセスできず、その結果、社会から孤立する障害であるという点です。
私も、この世に出てきたばかりのころは、光がなく音もない世界にいて、人形のようにおとなしい赤ちゃんだったそうです。まわりにどんな人がいるかわからないし、どんな物があるかもわからない。人間らしく笑うようになったのは手術を受けて目に光が届いてからだったそうです。
「目が見えないことは人と物とを切り離す。耳が聞こえないことは人と人とを切り離す」という哲学者カントの言葉がありますが、まさにその通りだと思います。
情報にアクセスできないということは、そもそも情報があるということすら認知できないということです。どれだけ便利なサービスを作っても、そういうサービスがあるということすら、知ることができません。
2022年の夏から秋にかけて、駅のホームにあふれる音を可視化する「エキマトペ」という装置が上野駅のホームに置かれました。エキマトペを見て「こんなに音情報があるのか」と初めて知った人もいます。YY Probeという文字起こしアプリを電車の中で使ってみたところ、車内放送で乗り換えの時間とホームまで教えてくれていたのかと感動した友人もいました。
「音情報がある」ということさえも聞こえないと知ることができませんが、今はスマホアプリを使ってその問題をある程度は解決できるようになりました。他にも、さまざまな障害や病気、あるいは障害を持たない人であっても育児や介護などで一時的に困難を抱える人に対して、いろいろな面白い技術が出てきています。分身ロボット「OriHime」を使えば、ALSで寝たきりの生活を送っている人でも、ロボットの「パイロット」になって、カフェで働くことさえ、今はできてしまうのです。
今まで手に入れることが難しかった情報に手が届くようになり、生活がより豊かになり、進学や就労も昔とくらべると選択肢が拡がりました。平成元年の春、目が見えない、耳も聞こえない子をどう育てていけばよいか、絶望の淵にいた両親に、30数年後の未来を見せたら、きっと驚くに違いありません。
まだ私たちがアクセスできない領域はたくさんあるので、目や耳に障害を持つ人が一人取り残されずに社会に参加できるような、アクセシブルな世界を作っていきたいです。
生き残れる者、この世を去る者、何が二者を分つのか
過去から今にいたるまで、繰り返されてきた風疹流行。昭和時代の流行で母子感染から生き残った子どもたちは、大人になった今も病気や障害と向き合う日々を送っています。風疹の流行がなければ、今できないあんなことやこんなことができていたかもしれません。
生き残った人たちの後ろには、生き残れなかった子どもたちも大勢います。亡くなった人たちの想いを現生にいる私たちは知ることができません。私は運良く生き残れた側にいますが、この命がなければこうして自分の思いや考えをみなさんに伝えることもできなかったはずです。
なぜそのような理不尽なことが起きるのか。そして、生まれつきの病気や障害を持って生きなければならないという理不尽が、他人ではなく、なぜ自分に降りかかってきたのか。耳が聞こえず、見えづらいこの世界を当たり前のものとして、理不尽を理不尽として受け容れなければならないのは、なぜなのか。
次々と命を落としていく過酷な環境にあっても死なずにすむ人たちもいます。私の二人の祖父は、シベリア抑留とニューギニア戦線を生き延びました。祖父たちが生き延びて祖国の地を再び踏むことができたのは、なぜでしょうか。亡くなった戦友と祖父たちとのあいだで何が違っていたのでしょうか。
私の手元に『なぜ私だけが苦しむのか: 現代のヨブ記』という一冊の本があります。ユダヤ教のラビである著者が、息子アーロンがプロジェリア(早老症)にかかり、なぜ自分の息子が親より早く死ぬ運命にさらされなければならないのか、と悩み苦しみつつ、旧約聖書のヨブ記を読み進めていくという本です。
この本を読んで気づいたのは、私たちはとても弱い生き物だということでした。不安や恐怖を感じて、ちょっとしたことで怒りや不満をため込んでしまいます。うまくいっているように思えることでも、ちょっとした失敗で心が挫けてしまうこともあります。
けれども、誰かとともにいることで、苦しみを生き抜いていくことができるのです。私たちをつねに励ましてくれる存在がいるからこそ、私たちは不安や恐怖に落ち着いて対処することができる、そう考えることができるようになりました。
生き残れる者、この世を去る者、何が二者を分つのかーこの、誰にも答えられない、わからない問いに対して応え続けるのが私に与えられた運命なのかもしれません。
あの日から約30年の時がすぎた今でも「ごめんね」と
あの日から30数年が過ぎ、母が私を産んだ歳になったとき、今の自分だったらあのときどんな思いをしていただろうか、自分なら、母と同じ境遇に耐えられるだろうか。考えれば考えるほど、この病気は他の人には経験してほしくないという気持ちが強くなりました。
母は30年以上経った今でも、ときどき「ごめんね」と謝ってくれます。
もし、風疹と分かっていたら生まれてこれなかったかもしれない。心臓病が重かったら、7ヶ月ごろにかかった麻疹で死んでいたかもしれない。生まれてくることができ、今こうして元気に暮らしていられるのは奇跡だと思います。
耳が聴こえず目に病気をもって生まれてきてしんどいこともありました。聞こえる耳があったら、病気のない目があったら、と何度思ったことか。せめてどちらか片方だけだったらと今でもたまに思うことがあります。
その一方で、風疹にかかっていなければ出会えなかったであろう素晴らしい友人たちとのご縁をいただくこともできました。
その方も風疹が原因で重度難聴になり、網膜剥離の予防でレーザー治療を繰り返し受けてきました。仕事では耳が聴こえないことを理由に差別する人もいて、泣き続けた時期もあったそうです。これからも辛いこと沢山あると思うけど、泣いたぶんたくさん笑ってほしいな。あなたの笑顔で私も明日頑張ろうって思える、そんな出会いに恵まれたのは本当に良かったなと思っています。
今こうして病気や障害を持ってはいますが、自分のことを不幸とは感じません。自分は一人ではなく、誰かのために生かされて、誰かのために生きていると感じます。生まれてこれてよかったなと心から思います。そう思えるのは、家族や友人がいつも側にいてくれるからです。この場を借りてみなさんに感謝します。いつもありがとう。そして迷惑かけてばかりでごめんなさい。
障害や病気を持つことはイコール不幸ではありません。まわりの人と同じように嬉しいことや楽しいことがあります。重い病気で意思疎通が難しい人であっても、その人に生きる価値がないと切り捨てるのではなく、どうしたら一緒に楽しく過ごせるのだろう、喜びや悲しみを分かち合えるのだろうと考えることが、すべての人にとってより良い未来を作ることにつながっていくと思います。
今年は風疹の流行をなくすラストチャンスになるかもしれない
2019年度からようやく開始された男性への定期接種も、予防接種の前に抗体検査が必須とされ接種手続きがわずらわしいことや、新型コロナの拡大により外出する人が大幅に減ったことで制度の利用者が低迷し続けています。制度利用者の割合が目標に届かず、定期接種の期間も2024年度まで延長されることになってしまいました。
2013年の流行から約10年たったいま、流行の中心となっていた世代のライフステージも変化しつつあり、中には課長や部長といった若い世代を支える立場へとステップアップしている方もいます。その世代に対して、どうアプローチしていくか、どのように当事者意識を持っていただくかということが、今後の課題であると思います。
対象世代の方の中には独身の方や、こどもは作らないと決めている方もいます。そうした方々にとって「妊娠」「出産」というキーワードでは、自分のこととは考えづらいものです。それで伝わるのであれば、こんなに時間がかかることもなかったはず。
やはり今まで言われているように、接種を受けやすい環境づくりが必要です。4月から夏にかけて行われる企業での健康診断で抗体検査を受けられ、昼休みに気軽にワクチン接種を受けられるのが、最も良い方法だと思います。
すでに接種券を発送済みの方々に対しても、プッシュ型の情報提供を続けていくことも必要です。Twitterを見ていると、第5期定期接種のクーポン券を使って抗体検査を受けに行ったというツイートを見かけるので、まだ取りこぼしている人がいるのではないかと思います。
また10代、20代の方々に対して、風疹という病気の怖さを認識してもらい予防対策を続けてもらうことも重要です。MRワクチン(麻疹風疹混合ワクチン)の第1期定期接種(1歳〜2歳未満)の接種率は、2020年度の98.5%に対して、2021年度は93.5%と低下しています。
麻疹や風疹の流行を防ぐには、高い接種率を維持する必要があり、ワクチン未接種のこどもが増えると、すでに排除宣言を行っている地域でも流行が起きるおそれがあります。たとえば、アメリカ大陸地域では2016年に麻疹の麻疹排除宣言が行われていますが『「反ワクチン感情」が子どもの健康に対する最大の脅威に』という記事によれば、2022年11月初旬以来、アメリカのオハイオ州で少なくとも82件の麻疹患者が発生していて、そのほとんどがワクチン未接種ということがわかっています。
ワクチンの効果は目に見えづらいものです。ワクチンによって感染症が防がれる一方で、感染症で多くの人が苦しんだ記憶が薄れ、不正確な情報や政治的なイデオロギーなどによって上書きされてしまうのです。そうならないためには、過去の歴史をひもとき、若い世代へと受け継いでいかなければなりません。
今年のゴールデンウィーク明けから、新型コロナが5類感染症に位置付けられることが決まり、緊急対応的なものが縮小されていくなかで、風疹の第五期接種の延長も次はないと思われます。今この時こそ、5類の仲間である風疹のことを広く知ってもらうラストチャンスなのかもしれません。
私があなたにこの長い手紙を書いたわけ
私たちはいま新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を通して、ワクチンなき時代のおそろしさを身をもって知らされています。
風疹ワクチンがなかった時代には、1964年から65年の間にアメリカで流行が起き、2万人の先天性風疹症候群の赤ちゃんが生まれていたことがわかっています。社会が不安や恐怖にさらされ、中絶の権利をめぐる議論にも影響をあたえた歴史があります。
当時米国統治下にあった沖縄でも、1965年から66年にかけて流行が起こり、408人の風疹障害児が確認されています。臨時に北城聾学校が設立され、高等部の野球部が甲子園を目指した物語「遙かなる甲子園」は漫画やドラマ、舞台劇となり、風疹流行の悲惨さを伝える物語として、また、生き残った子どもたちの努力の証として、後輩世代の私たちに伝わっています。
ここで、この長い話をさらに長くしてしまうことになりますが、一人の人物を紹介させてください。
メレディス・ワッドマンの「ワクチン・レース」という、1960年代当時の当時の熾烈な開発競争の光と影を鮮やかに描いた本があります。この本の物語はワクチンのない世界から始まり、犠牲者たちにもスポットライトが当てられていて、スティーヴン・ウェンツラーという人物が出てきます。
1964年、ニュージャージー州で生まれたウェンツラーは、視覚障害と聴覚障害をあわせもち、1985年にパーキンズ盲学校を卒業。ワシントンDCのギャローデット大学にもわずかな期間通ったが、視聴覚重複障害を持つ学生は一握りで、ろう者からいじめを受けて退学し、ニュージャージー州のカムデン・カウンティ・カレッジに入り直してコンピューターの専門知識を学びました。
しかし、視聴覚重複障害でコミュニケーションをとるのが難しいことを理由に、彼の高いITスキルを評価する雇い主はおらず、レストランのモップかけやバスルームの清掃といった職に就くことになりました。
2004年、盲ろう青年・成人のためのヘレン・ケラー・ナショナルセンターは、“Deaf-Blind Awareness Week 2004” (PDF) のポスターにスティーヴン・ウェンツラーの写真を採用。
そのポスターには“Help fight the 1964 rubella epidemic by hiring one of thousands of Americans it left deaf and blind. Like Stephen Wenzler.” というメッセージが掲げられました。日本語に訳すと「1964年の風疹の流行と闘おうー風疹によって聴覚と視覚を失った何千人ものアメリカ人の一人を雇うことによって。スティーブン・ウェンツラーのように。」というメッセージです。
1964年、アメリカのニュージャーシー州で生まれたその少年は、風疹による障害のために可能性を見出されず孤独に生き、2006年11月、42歳の誕生日の夜、交通事故で生涯を終えました。
ウェンツラーの身に起きた悲劇は、米国で起きた1964-65年の流行で2万人の赤ちゃんと家族にもたらした悲劇の一部に過ぎません。数十年前のできごとであっても、彼らが生き続ける限り苦しみや痛みは続く。
これが多くの科学者たちを風疹ワクチンの開発競争に駆り立て、今日、ワクチンが全世界で使われている理由であり、私がこうしてあなたに長い手紙を書かなければならない理由でもあるのです。
おわりに
風疹は「3日ばしか」ともよばれ、麻疹とくらべて軽視される傾向にありますが、母子感染により病気や障害を持った者からすると、小さいころにかかって軽くすむような病気ではありません。決して、時計の針を過去に戻してはならないのです。
風疹の流行をなくすということは、すなわち、障害を持つ人生そのものを否定することにつながると感じる人もいるかもしれません。
それでも、この病気はなくさなければならないと思うのです。それは、他の人に自分と同じ経験をしてほしくない、そして、風疹によって失われる命をなくし新たな命に未来を託したいという強い願いがあるからです。
2月4日は「風疹の日」。風疹の流行がなくなれば、病気や障害に苦しむ人、命を失う人、赤ちゃんを産むか産まないか辛い選択をする人を減らすことができます。流行を防ぐ方法が分かっていて、すでに防ぐ道具もあるのに、なぜ流行を止められないのでしょうか。流行を繰り返さないために、どうか、みなさんの力を貸してください。
ワクチンで防げるんだから、打とう!!!
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