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「かわいい」

かなり長い期間、私は「可愛い」という表現を平和の言葉だと思っていた。

争いが起きないからである。

どういうことか解説する。魅力的なアイドルについて語る3人を例にあげる。

「サナは瞳が大きくて可愛いよね」

「いやいやスッと通った鼻筋が魅力的なんじゃないか!!」

「わかってないな〜あの愛嬌でしょ」

「瞳!」「鼻筋!」「愛嬌!」

同じ魅力的な話をしていることに気付ければ、サナがとても魅力的ということに落ち着くが、このように、より細かく主張することにより意見の対立が起き、争いに発展する。

と、考えていた。長い間。可愛いには広い意味があるし、詳細に評価しないことで意見の対立もなくみんなおんなじ意見、なかよし!平和!本当にそう考えていた。

そのため、複数の人の前で何かを評価するとき、具体的に表現することを避けて過ごしてきたし、なんなら「かわいいってすごく便利で平和な言葉なんだよ」と主張してきた。確かに便利ではあったが、そのような生活を続けたせいで、どんなところが魅力的に思っているのか、どういうところが好きなのか、具体的に説明する能力が、もともと低いくせにもっと低くなったように感じる。

便利な言葉を多用したせいで、本当はもっと詳細なことを感じているはずなのに、具体的に表現できなくなっていった。言語化できない感情は漠然としか記憶に残らなくなった。

馬鹿になったのだ。

言葉は時代とともに変化していくけれど、広い意味を持つ言葉を使い続けると、大雑把な表現しかできなくなる。

私は馬鹿になった。

「かわいい」に甘えた弊害だ。これは損失だ。


日本には美しい言葉がたくさんある。細やかな変化や情景を表す言葉がたくさんあったはずなのだ。言葉を使おう。言葉に触れよう。美しい表現をする人たちの文章を読もう。沢山の言葉を使っていこう。自国の言葉を愛そう。

でも活字は苦手だから絵本から読むね。


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