【考察】「喪失感」の芸術性──『床下展』と『ポメロメコ』と『MELIA』

※劇団イヌカレー先生の『ポメロメコ』および『床下展』のネタバレを含みます。また、後半から大石竜子先生の『MELIA』、アニメ『灰羽連盟』『AIR』のネタバレを含みます。作品を鑑賞後にお読みください。

先日、パラボリカ・ビスで開催されている劇団イヌカレー先生の『床下展』を鑑賞した。

『髑髏展』も同時開催で、初めて訪れた日は強風と大雨の中、打ちっ放しのコンクリートの薄暗い部屋、雨水の滴り落ちる音、隠し部屋のような小部屋に飾られている中川多理先生の儚げな和人形、おどおどろしい雰囲気はすでに異空間であり、私は一瞬にして飲み込まれていた。(その意味で、パラボリカ・ビスの建物は雰囲気作りに大いに役立っていたと思う。これが、ゴージャスな美術館であったとしたら、むしろ雰囲気にはマイナスであったことだろう)

そして、目的の『床下展』はまさに期待していた通りの"イヌカレー空間"であり、よくぞここまで現実に具現化したものだと大いに感銘を受けた。吊るされた鳥籠、ややグロテスクでいて可愛らしさをも失わない展示作品、意味深な言葉を語りかけるナレーション、枯れかけた祝い花の濃密な匂いが部屋の中に充満しており、まさに禁断の部屋という雰囲気を醸し出していた。私はその濃密な世界に圧倒され、いつまでも留まっていたいと強く思わされた。

展覧会から帰宅した私は、早速、劇団イヌカレー先生の作品を検索し、通販で入手することにした。


一、『ポメロメコ』と「喪失感」について

『ポメロメコ』は、劇団イヌカレー先生により、女性向け漫画誌『ネムキ』に連載されていた、全十五話の絵本である。

各話四頁、全話六十頁の掌編ながら、劇団イヌカレー先生の個性的で濃密な世界観が余すところなく表現されており、まさに"紙の上のイヌカレー空間"であり、稀有な作品と呼べる仕上がりになっている。なお、過去のインタビュー内で単行本化の話もあったことが明かされているらしいが、是非、単行本化が待たれるところである。

さて、この作品を貫く一つの感情がある。すなわち、「喪失感」である。

遠い日になくしてしまった大切なもの、もう取り戻すことのできない何か、欠けてしまった半身、胸をかきむしるような思いを起こさせる、「欠落」である。

めくるめくシュールな世界での冒険の果てに、最後に残ったものは、それであった。

一見、理解不能のように思える万華鏡のような不条理な世界観に惑わされるが、その激しい渦のようなイメージの奔流の中心には、静謐な無風地帯として、この「喪失感」があるように思える。

第一話、カエル工の二人がかつて捨てた(むしろ、拾った)猫に誘われて、「床下」の世界へと迷い込む。

そのシュールさとグロテスクさと可愛らしさを混ぜあわせたような絵柄は、まるで、我々が眠っている間に見る悪夢を、通常は数分も経たずに消えてしまうそれを、覚醒しても忘れることなく、正確に紙の上に描き出しているような画面である。おそらく、劇団イヌカレー先生はそのような能力を有しているのではないだろうか。それは画家として稀有な能力と言えるだろう。

第八話、病床のネズミの子供のために親子カエルを作ってやる。それは、「この時のためにカエルを作っていたのではないか」とポメロとロメコの二人に思わせる出来事であった。「売れないカエル」を作り続けることが、初めて意味のある行為であると認められた瞬間だった。

しかし、物語は予想外の方向へと転がってゆく。「売れないカエル」の成れの果てである白ペッタンの反乱、彼らを追放するため、親子カエルの放棄を迫られる二人。

結局、親子カエルにこだわるポメロは、「床上」へと帰ろうとするロメコと決別し、二人を結ぶ三つ編みを切断し、行方不明となる。ポメロを呼び続けるロメコの声はもう届かなかった。

最終話、「床上」は焼け野原になっていた。(これは世界が色褪せたことの暗喩であるようにも思える)

何年もの歳月が経ち、大人になったロメコは一人、生活のために工場で鳩の羽根を作る。鳩の方がカエルよりも儲かるからだった。

ロメコは今でも、あの日々を思い出す。ポメロと一緒に「売れないカエル」を作っていた日々を。

「いつかきっとさらいにゆくよ。あのこをさがしにゆこう」

この言葉で、物語は締めくくられている。

ポメロを喪失したロメコの姿が胸に迫る。

「あのこをさがしにゆこう」と語る言葉には、切実な響きがあり、真に迫っていると感じる。

大切な半身をなくしてしまった「喪失感」と、もう一度、それを取り戻したいという切実な祈りのような気持ち、なくしてしまったものへの悼みが、そこにはある。

この「喪失感」、あるいは、「欠落」は、折しもパラボリカ・ビスに展示されていた、四肢欠損の人形にも通じるものがあるように思える。

四肢の「欠落」、遠い日になくしてしまった魂の一部、決して埋め合わせることのできない「喪失感」──そのような世界観である。

あるいは、この「喪失感」の正体は、「子供時代の終わり」と見なすこともできるだろう。

子供時代の驚きに満ちた世界、センス・オブ・ワンダー、そして、イマジナリー・フレンド……。

それらは、大人になると失われてしまう。日々の仕事に追われ、ルーチンワークの日常の中、大抵の出来事には驚かなくなり、世界は色褪せてゆく。

子供の頃の感覚は、大切な魂の一部でありながら、歳を経るにしたがって失くしてしまう。

それは、一つの「喪失」と言えるだろう。

ポメロが、ロメコにとってのイマジナリー・フレンドであったのか、あるいは、虐待から逃れるために現れた二重人格であったのかは、分からない。

ただ、ぽっかりと空いた「喪失感」だけが残されている。

そして、後述するが、この「子供時代の終わり」というテーマは、大石竜子先生の作品においてより明確に取り上げられているものである。


二、『ポメロメコ』と『床下展』の関係について

初めて『床下展』を鑑賞した時、私は、"失恋をして人生に絶望して身投げをしようとしている女の子の心の中を正確に描写したような世界"のようだと感じた。

『床下展』では、メメリがカネリコの頭をなくしたことが描かれる。カネリコの頭を探して「床下」の世界に迷い込むメメリ。いくら探しても見つからない。やがて、メメリは歳を経て、大人になった姿で「いつかまた床下へ行く」と語り、この物語は終わる。

ウデロ様やリデクル婦人など、物語を彩る登場人物たちも、まさにイヌカレーワールドの一員として楽しませてくれる。

この物語は、明らかに『ポメロメコ』と繋がっている。

名前をもらった犬のディディミルは、猫のドレンレン・ロドノフであり、歳を経ても床下を探し続けるメメリは最終話のロメコであり、ナレーションの最後に語られる「カエル工」はポメロとロメコの二人のことであろう。

その意味では、『床下展』は、もちろん単体でも楽しめるものであるが、『ポメロメコ』を読んで初めて理解できる部分も含まれていると言えるだろう。


三、『MELIA』と子供時代の終わりについて

大石竜子先生の『MELIA』は、童話集の形式の絵本であり、グリム童話等を題材としながら、現実の登場人物と童話とをリンクさせる形で綴られている、幻想的なファンタジーである。

氏特有の煌びやかな色彩感覚と大胆にして繊細な筆致が余すところなく表現されており、極めて芸術性の高い一冊となっている。

その濃密で情報量の多い緻密な画面は、『ポメロメコ』にも匹敵するものであるように思える。

綴られている童話はどれも繊細で美しいものであるが、全編を貫くテーマとして、「子供時代の終わり」が示されている。

童話の世界に遊ぶ子供時代、その豊かな想像力。現実の世界で恋愛等を知ることにより、大人になると、楽しかった童話の世界と別れを告げる。ただ、今はまだ、童話の世界に遊んでいたい――。

そのようなテーマが繰り返し提示されている。

「みせてください あなたが おとなになるはざまにみるゆめを おとなになるとわすれてしまう どうわを」

ここでは、『ポメロメコ』のような、悲壮な「喪失感」はない。

あくまで、「喪失」する前の時点(あるいは、その瞬間)で時を止めて、永遠に停止させているような構造になっている。

もし、この停止した時計の針を動かして、"喪失した後"を描いたならば、『ポメロメコ』のような「喪失感」に包まれた作品となっていたことだろう。

もっとも、『MELIA』においても、子供時代の終わりの「喪失感」は暗示されている。

「ゆきのじょうおう」では、水鏡に映った自分の姿を話相手にしていた少女が、冬の終わりとともにその場所を去り、大人になって、その遊びをやめてしまうことが示されている。

話相手にしていた自分自身との別れは、すなわち、大切な自分の半身との別れを意味しており、『ポメロメコ』におけるポメロとの別れを彷彿とさせるものである。

これは、子供時代の終わりによる、イマジナリ―・フレンドとの別れ、その「喪失」が描かれていると解釈することができる。

ただ、そこには、『ポメロメコ』のような悲壮感、胸を締め付けられるような痛みはない。

あくまで、自然な成り行きとして、一抹の寂しさとともに、受け入れられている。

そこに両者の違いを見出すことができるだろう。

 

四、「喪失感」の芸術性

※以下、『灰羽連盟』、『AIR』のネタバレを含みます。

 

『ポメロメコ』の他にも、「喪失感」を扱った、名作と呼ばれる作品が存在している。

『灰羽連盟』、『AIR』がそれにあたる。

『灰羽連盟』では、クウとの別れによるラッカの苦悩、そして、クラモリとの別れによる「喪失感」を抱えたレキの姿が丁寧に描かれている。

クウを喪失したラッカ、クラモリを喪失したレキの心の機微を繊細に描いたところが、この作品の優れた点であると言えるだろう。

(なお、作者による『灰羽連盟脚本集』には、初期稿では、仲間との別れを乗り越えられなかった灰羽が陥る姿が"罪憑き"であったと記されている)

ラッカやレキの「喪失感」は、大切な人との別れによるものであった。

それは、最終的に、ラッカにとってのレキ、レキにとってのラッカにより、埋め合わせられることになった。

大切な人との絆が、「喪失感」を埋め合わせたということになる。

(個人的には、レキは、ラッカにより救われた後も、クラモリを失った「喪失感」は埋め合わせられることはないように思われるが、「巣立ち」を迎えることができた描写から、埋め合わせられた、と解釈するべきかもしれない)

『AIR』では、「埋め合わせられない喪失感」が描かれている。

観鈴は、愛する恋人に何度も命を救われ、そして、愛する母親に看取られながら、「星の記憶」を受け継ぐ者として、地上に住むすべての人々のために、「幸福な死」を受け入れることになった。
そこで高らかに歌い上げられる『青空』は、一人の少女の死への悼みに溢れており、屈指の名場面と言えるだろう。

この時、主人公である往人はカラスの姿であり、プレイヤーは傍観者となっている。
この無力感が、少女の「喪失」を、より明確な形で突き付ける構造になっている。この時、「喪失感」を感じているのはプレイヤー自身に他ならない。
観鈴を看取った晴子の悲痛な叫びを聞きながら、プレイヤーは「喪失感」を突き付けられることになる。

このような物語上の構造、すなわち、ヒロインとの死別による「喪失感」は、いわゆる"泣きゲー"と呼ばれるジャンルのノベルゲームに共通する常套手段となっているとも言える。
ただし、それはあらゆる分野の芸術作品において採用されてきた、一つの典型とも呼べるものではないだろうか。

ここまで、それぞれの作品における「喪失感」を見てきた。

それらをまとめると、大切な人との別れ、あるいは、ヒロインとの死別と、子供時代の終わり、それによる大切な半身との別れの、二種類に分けられる。

前者は『灰羽連盟』、『AIR』であり、後者は『ポメロメコ』、『MELIA』である。

もっとも、『ポメロメコ』で描かれた物語が、子供時代の終わりを意味しているのかは議論の余地がある。

「床下」で、「売れないカエルを作り続ける」ということと、「床上」で、「売れる鳩の羽根を作る」ことの対比を通して、創作活動における方向性の問題、すなわち、商品として売れるためには、自らが作りたい作品を作るのではなく、大衆に受ける作品を作らねばならない、というテーマを描いていると解釈することもできるだろう。

その解釈を裏付けるものとして、第八話で病床のネズミの子供から「売れないカエル」を求められ、その時初めて、「売れないカエル」を作り続けることの意味を見出す、というエピソードが挙げられる。

また、「床下」への侵略者である白ペッタンは、「売れないカエル」の売れ残りであり、ポメロたちの創作物に他ならない。彼らに救い(あるいは、滅び)を与えてやれるものは、その作者であるポメロたちしかいない、という構図として見ることもできるだろう。

そこでは、「創作」という行為自体がテーマとして設定されることになる。

これに対し、『床下展』の物語が、「子供時代の終わり」を描いていると解釈できる部分がある。

リデクル婦人のエピソードでは、年老いたリデクル婦人が、死神の力により、過去のひと頃に置き忘れてしまった魂を取り戻すために、人形へと姿を変え、「床下」へと向かう姿が描かれている。

この「過去に置き忘れてしまった魂」は、すなわち、「子供時代の終わりに喪失してしまった、自分の大切な半身」を意味していると解釈することができる。

この解釈を適用するならば、『床下展』の物語は、「子供時代の終わり」とそれによる「大切な半身の喪失」を描いていることになる。
ただし、ウデロ様やディディミルたちをどう解釈するかという問題は残されている。

果たして、『ポメロメコ』や『床下展』で描かれた物語が、「子供時代の終わり」を描いたものであるのか、あるいは、「創作行為の問題」を取り上げたものであるのかは、結論は出せない。

ただ、一つだけ言えることとしては、一見、シュールで不条理なイメージの奔流のように見える劇団イヌカレー先生の世界が、その激流の渦の中心に、「喪失感」という核を有しており、眠っている間に見る悪夢のようなめくるめく世界観のすべては、そこから発生したものであるように思えるのである。

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