「『小鳥たち』出版記念 京都巡回展」の思い出

 先日、京都は山科の春秋山荘さんで開催されている「『小鳥たち』出版記念 京都巡回展」を観てきた。
 『小鳥たち』は、幻想文学の第一人者である山尾悠子先生による瀟洒で奥深い小説と、稀代の球体関節人形作家の中川多理先生による存在感のある美しいお人形たちがコラボレーションした、古今稀にみる本である。その感想と東京での出版記念展の思い出については、以下に書いた。

 今回の展覧会は、東京での出版記念展の京都への巡回展である。間を空けずに巡回ということになったが、新作の小鳥の侍女さんたちも多く出展され、さらに、大公の新しい妃と新しい黒衣の侍女さんも登場し、この短期間によくぞここまでと思われる素晴らしい内容になっていた。これぞ、中川先生一流の魔法と呼ぶべきであろう。

 先日、およそ一月半ぶりに山科駅に降り立った。私事ながら、今回は初めての着物デビューということで、着付けに手間取って一時間近くもかかりながらも、着物で京都を歩き、そして、春秋山荘さんへ伺うという夢を果たすことができた。初めて京都を訪れたのが、まさに、この春秋山荘さんでの中川先生の「幻鳥譚」展であり、そこで稀代の和装のお人形、菫さんを初めてお迎えしたのであったから、私にとっては、京都=春秋山荘さん、という図式にもなっているのであり、また、約三年前の「幻鳥譚」展が、私の中での「すべての始まり」にもなっているのである。
 着物姿ということもあり、山科駅前で初めてタクシーを利用して、毘沙門堂へと向かった。歩けば二十分以上はかかる道のりだが、タクシーであればワンメーターである。道中に咲いている菜の花や、金木犀や、琵琶湖疎水などは歩かなければ味わうことはできないから、次回は涼しい季節になろうから、歩いてみたいと思っている。
 毘沙門堂の急勾配の階段を登り切り、参拝を済ませた後、足元に注意しながら階段を下って、小道へと入る。道路は舗装されていて歩きやすい。小川のせせらぎと天を覆うばかりの木々が目に優しく、ハイキング客も多い、爽やかな小道である。やがて銘木の板に書かれた風情のある看板が見え、見事な茅葺屋根が垣間見えてくる。

 重厚な玄関の引き戸を開けて中へと入れば、立派な梁と囲炉裏を有した古民家の空間、その奥の左側の室の前には、二人の黒衣の侍女さんたちが待機している。左側の子は、赤毛の長髪に凛とした瞳が印象的で、仕事のできそうな感じのする、美しい子だった。右側の子は、より優しい印象で、ウェーブがかったブロンドの長髪に穏やかな表情、育ちの良さを感じさせる、品のあるお嬢様然とした子であった。この二人だけでもすでに満足感が高く、その前に正座してじっと見詰めていた。
 名残惜し気に立ち上がって、左の室を覗いた瞬間、あっと声が漏れそうになった。(実際、小さなうめき声が漏れていたと思う)幻想的な色に染め抜かれた大きな布が垂らされ、東京展の時とは打って変わって椅子に座り、今まさに被昇天しようとしている穏やかな表情の老大公妃の熟成された美しさ、荘厳さ。空間の上方には紐が渡され、舞い散る小花と小鳥の羽根、そして、小鍋などの調理器具が吊り下げられ、情趣溢れる光景を描き出していた。この立体的な演出は、中村美梢先生ならではであり、いつもながら見事だと感じた。
 そして、老大公妃の隣の黒い棺には、なぜか可愛らしい小さな鳥頭の小鳥の侍女さんたちが入っており、黒衣での葬送ごっこであろう、子供らしい遊びに興じる愛嬌たっぷりの無邪気な姿をしており、私は思わず、あまりの可愛らしさに過呼吸に陥りそうになるほどであった。帰ってからも、この二人の鳥頭の小鳥さんたちのことが脳裏を離れず、思い出しては溜め息をつく日々であった。
 この幻想的な光景を前にして、私は室内に足を踏み入れることを躊躇した。そこは、お人形たちのための「聖域」であり、自分のような穢れた者が足を踏み入れてはならない場所であるように感じられた。戸口に立ったまま、ずっと眺めていた。そこには、我々の生きている空間とは別の種類の空気が流れているようだった。人間のための世界ではなく、お人形のための世界。お人形が生きている世界、それは、おそらく、この世のものではなく、別の位相の世界であるのだろう。

 やがて、左側の室の前で立ち尽くしていたのを、引き剥がすようにして足を動かし、二人の侍女さんたちの前を通って、右側の室へと入る。中央には、碧空色の豪奢なドレスに身を包んだ、大公の新しい妃が佇んでいた。短めのブロンドの髪に羽根つき帽が似合っており、意志の強さを感じさせる瞳と美しい顔立ち、気高さと向こう見ずな少女らしさをも感じさせるようだった。
 その後方には、「特装版」の小さな侍女さんたち。それぞれ個性豊かな顔立ちをしており、上品なドレスや頭飾りも手抜かりなく完璧な出来栄えで、どの子をお迎えしても、きっと、大切に愛されるだろう、可愛らしい子たちである。

 そして、左側の室の中へと足を踏み入れる。先ほどは戸口で立ち尽くすのみであったが、今回は右側の室からの続きで足元の布がない空間があり、そこに正座して四囲を眺め渡すことができた。板壁に、これまでに生み出されてきた二十人以上の小鳥の侍女さんたちの写真が肖像画として額に入れて飾られており、あたかも中世の領主館の一室を思わせるようだった。
 この時、私は自分が過去へと遡っている感覚を覚えた。遠い昔日の人物として肖像画に入れられている小鳥の侍女さんたち、彼女たちは時空を行き来し、過去にもいて、現在にもいる、そして、未来にも。『小鳥たち』の作中で、未来の噴水庭園で起こった小花の奇跡、それは、過去の老大公妃の被昇天と呼応するものではなかったか。過去と、未来と、現在と。「時空のゆらぎ」を内包し、神秘のヴェールに包まれながら、この物語世界は続いてゆく。
 なお、余談になるが、その後、アンリ・ド・レニエの『水都幻談』を読み、ヴェネツィアという類まれなる美しい水都に恋をした詩人が、その街並みに昔日のヴェネツィアの人々の幻影を見る、また、現地の骨董店で買い求めた朱塗りのインク壺とペン立てのセットと呼び鈴に古のヴェネツィアへと誘われる、という現象を見て、これは、「現在と過去の二重写し」であり、「時空のゆらぎ」の一種ではないかとの発想を得た。現実の「物」を見て、その背後の「時空」を重ね合わせる、この時、発生する情趣こそが、骨董を前にした時に感じる、あの独特の雰囲気の源なのではないかという、この発想は、まだ思い付きの段階である。

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 さて、この素晴らしい展示を体験した記念に、三冊目の『小鳥たち』と、二冊目の『人形写真文庫 中川多理』を買い求めることにした。また、特製の羽根柄の栞が置かれていたので、そちらもお迎えさせていただいた。素敵なお人形を堪能し、素敵な本と品物をお迎えする、さらに、ご縁があれば新しいお人形も。これに勝る喜びはこの世には存在し得ないであろう。何という贅沢であろうか。今この時代に生きていることに感謝したい。
 次回の展覧会も、今から楽しみで仕方がないのである。

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