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やっぱりメイセイオペラ~夢はまだ終わっていない~

まえがき

最近部屋の片づけをぼちぼちやっていまして、昔作った個人誌とか出て来まして、マンガとかテキストとかあるのですが、まあこっぱずかしい(笑)。

しかしそれも自分の歴史かなと思ってマンガはタブレットにスキャンして、テキストはちょっとこちらに上げて供養にしようと思います。

競馬に詳しい方ならご存知かもしれませんが、「メイセイオペラ」は、地方競馬に在籍しながら、1999年中央競馬のG1レースを制覇した馬です。

その時の興奮を書いたエッセイみたいなものですが、今と文章の書き方が変わっていました。ちょっとびっくり(笑)。

書き直そうかと思いましたが、当時の思いも変わってしまいそうだったので、ネットに上げるのは差し支えそうなところと、文章的に伝わりにくいところだけ直して、ほぼ当時のままの文章で掲載します。

書いたのは2000年らしい(なので、文中の情報は全て2000年当時のものです)。22年前!恐ろしや(笑)

文中敬称略しています。

ちなみにこの「メイセイオペラ」は引退後種牡馬となり、その後韓国に渡り、韓国で死んだそうです。

ではお恥ずかしいですが、最後まで読んで頂ければ幸いです。

やっぱりメイセイオペラ~夢はまだ終わっていない~

 一番先に名前を覚えた馬が中央競馬(JRA)の「エアグル―ヴ」という女傑だった。名前を聞いた時は牡馬だと思ったら牝馬で、カッコいいと思って好きになった。今は引退して一児の母である。相手はサンデーサイレンスという種牡馬で、馬券を買う馬に迷ったら、このサンデーサイレンスの子を押さえておけば間違いないという名馬である。生まれたのは牝馬で、1億数千万の値が付けられた。牝馬では最高である。
 JRAの馬や騎手のことがわかるようになると、岩手競馬関係の場外馬券場にいたこともあり、地方競馬の岩手競馬にも関心が行く。
 その中心が何と言っても「メイセイオペラ」である。
 かつて岩手競馬には「トウケイニセイ」という怪物と呼ばれた名馬がいたが、当時は地方競馬とJRAの交流レースはなく、やっと実現した時は9歳という高齢で、無残な結果を残してしまったという。
「もう少し早ければ」という関係者やファンの無念の思いが、「地方馬が中央馬に勝つ」という夢になった。その期待に答えたのが、オペラだった。
 1999年1月30日東京競馬。
 ダート1600mで争う「フェブラリーステークス」。ここを制した馬は「砂の王」と呼ばれるG1レースである。18頭立てのフルゲート。並み居る中央の強豪馬の中に、たてがみに赤い飾りをつけたオペラがいた。鞍上は菅原勲。岩手競馬のリーディングジョッキーで、かつてトウケイニセイにもまたがっていた。
 その時私は、岩手競馬が冬季は休場なので、JRAの窓口業務に携わっていた。仕事をしながらも、フェブラリーSに気持ちがいっていて、朝からそわそわしていた気がする。
 オペラは確かに強い馬だった。岩手競馬の中央との交流レースも制した実績がある。だが。
 みんな同じ思いだったと思う。多分一着なんて無理だ。それでも三着まで入ってくれれば。いやいや、綺羅星のような中央馬と共に府中のゲートに立っているだけで夢のようだった。
 いよいよ、スターターの旗が振られて、ファンファーレが高らかに鳴り響く。割れんばかりの手拍子の中、次々に馬たちが、ゲート入りしていく。
 当日の1番人気は、ワシントンカラー。オペラは2番人気だった。TVの解説者は、スタートからしばらく芝で途中からダートになること、地方と違って観衆が多いことで、馬が落ち着かないのではという不安を口にした。
 オペラは5番9枠。落ち着き過ぎるくらい落ち着いてゲート入りする。そしてスタート。心配されていた芝からダートへの変わり目も何事もなく過ぎて、オペラは5、6番目辺りに馬体を沈める。オペラは先行馬なので、やっぱりダメなのかと思った。それでも祈るような気持ちで画面を見る。この時窓口にいた私達従業員と、場外馬券場にいた客達の気持ちは一つになっていた。やがてオペラを孕んだ馬群は、3コーナーから4コーナーへと向かって行く。それにつれ、応援の声が一段と高くなる。府中で見ている観衆も、私達従業員も場外馬券場にいた客達も、一体になっていく。
 お互い周りの様子を伺いながら、馬群は4コーナーを回り、ゴールまでの最後の直線にさしかかる。すると、騎手の手が激しく動き、我先に馬群を抜け出そうとするが、その前にギアチェンジに成功した馬がいた。
 メイセイオペラだ。
 傾きかけた日差しに赤い飾りのついたたてがみが揺れ、菅原勲の黄色い勝負服が映える。観衆の応援も、場外馬券場にいる私達の応援も最高潮に達して行く。後ろからはタイキシャーロックや、同じように後方から抜け出して来たエムアイブランが追撃する。だが追いつけそうで追いつけない。オペラの末脚が爆発した。
 どれぐらい声を張り上げたのだろうか。窓口を挟んで、客と従業員が応援しているのは滑稽な図かも知れない。
 数え切れない夢と期待を乗せて、オペラはゴールしていく。2着はエムアイブラン。鞍上は天才騎手・武豊。
 夢にまで見た、史上初地方馬による中央G1制覇がかなった瞬間である。
 ゴールした時、客と従業員が一体となって喜んだことはどんな言葉でも言い表せられない。レースが終わって次のレースのために窓口を開けたが、その後の客はみんないい顔をしていた。きっと私達も興奮冷めやらず、にこにこしていたに違いない。
 その頃、府中では「勲コール」が起こっていた。こんなことを誰が予想していただろうか。オペラが1着でゴールした瞬間もさることながら、勲コールにも胸が詰まった。ウィニングランから戻ってきたオペラの手綱を引く厩務員の誇らしげな顔。きっと故小野寺オーナーも、天国で同じ顔をしていることだろう。もしもトウケイニセイが現役だったら。勲の胸にはそんな思いもあったという。
 たかが馬の話である。私だってそんなに詳しい訳じゃない。だけど、このメイセイオペラに関しては、涙なくして語れない。翌年、つまり200年のフェブラリーSでは、不調ながら4位に入る健闘を見せたが、怪我の完治が難しく、10月半ば、引退が発表された。走り続けた7歳の天才ダート王。もう走らなくていい。彼にはただただ感謝するしかない。
 岩手では彼の弟妹が活躍している。母テラミスは現役時代は芳しくない戦績だったが、いい母親だそうだ。今年13歳。夢はまだ、終わっていない。

参考文献「砂の王メイセイオペラ」(新潮社)

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