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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第183回 第149章 市街見下ろす新しい家

 小高いテラス地形の旭ヶ丘への転居は、新婚生活の場を求めての、市内の平坦な北東部から大通の反対側の山がちな南西部へのパラダイムシフトである。『夜明け前』の冒頭部分「木曽路はすべて山の中である」をもじって言えば、「三十路はすべて30歳代である」、「味噌煮はすべて味噌が入っている」。違うな、訂正。「札幌・旭ヶ丘はすべて坂の上である」。蛇足を許してもらえるなら、「ボクらはみんな夏の青空の下にいる」。もういっちょう行ってみよう。
「頭の中でグライダーを操縦して自由な空に舞い上がろう。マッターホルンも日月潭もベニスビーチも目に入るぞ」
 80畳まではないが狭くもないリビングの天井から床まで全面がガラスで解放感があり、眼下に人口200万人近い市街地が広く見渡せる。早朝も、真昼も、夕方も、深夜も、北方の都会的な光景は惚れ惚れするほど美しい。
 時々、トンビも飛んで行く
  編隊飛行で宙返り
   入れ歯がキラリと光ります
 この特別な街・札幌に生まれ育ってきて幸運だった。しかも、あとほんの2時間ほど遅れていたら、この物件は入手できなくなるところだったのだ。円山と藻岩山の間にあるため、三方を緑に囲まれている。すぐ近くの優秀でお上品な名門校・旭丘高校の学校祭が楽しみである。ボクの高校には制服がなかったが、「ガオカ=Gaoka」の制服はなかなか良さそうに見える。
 坂を歩いて上がるのは16歳でも大変かもね。特に始業時刻を過ぎた朝は。
「朝食とってたら遅れました」
「ごちん」
 滅多にないことだが、この校舎は低く垂れ込める霧の上に出ていることがある。まるで、飛行機で雲海を突き抜けた後の上空にいるみたいである。
 高額の奨学金の返済に加えて、ローンまで組んでしまった。手相見のように天眼鏡をかざしてじっと手を見る。
「専売公社には、行ってみましたかな」
「煙に巻かれました」
「次は塩を撒かれるじゃろうて」
 運命線があみだくじのように見え、その線を伝って小さな玉が器用に移動して行く。だが、運命線の網は次々と下から現れてきて玉の行方は確定しない。借金を合法的に踏み倒す方法をご存知の方、お礼に手術1回無料クーポン券(20年間有効)を差し上げますので、サトポロペッ扇状地総合病院広報誌編集部気付で当方にご連絡下さい。コードネームはJoeだJoe。今月17日まで麻酔薬無料増量キャンペーン中でお得です。効き過ぎたら、うちの寺にお越し下さい。
 もううちの壁に女優カレンダーは掛けていない。本心は誰かのを掛けたいのだが、掛けようとすると、ボクが剥製にされて壁を飾るようになるだろう。もしそうなら、隣の部屋がどうなっているかも気にかかるところである。だって相手はセシリアだよ。毎日が一輪車に乗っているような気分だ。ウィンドサーフィンよりもっと危ない。海なら落ちても鼻の中が痛くなるだけだが、アスファルトの上に後頭部をぶつけると、にわかにハッピーな人生に移行するかも知れない。せめて二輪にしてもらいたい、自転車でもオートバイでもいいから。
 三輪車は幼稚園児の暴走用に、じきに必要になるかも知れない。
「おい、おれとかけおちしよーぜ。からだにまほうのこなかけて、かくやすこうくうのといれにかくれるんだぞ。みつかってじんもんされたら、I’ll take the fifthってこたえるんだぞ。もくひけんをつかいますってゆーいみだぞ」
 娘ができて日舞を習わせれば、親はあちこちに気を遣い、名前を入れた手ぬぐいまで作らせて配って歩いて、娘は費用のかかる発表会でチャンリンシャンという所作を見せるようになるだろう。まあ、いいこと。まるで幸せな家庭みたいだ。
「うちの娘です。16歳になりました。良縁を求めています(「パアパア? 勝手なことしないでね」)。どうぞよろしくお願いします(ああ、心配、心配、心肺停止。娘の父親になんかなるんじゃなかった。この子を月に返さなければならなくなる日がもうすぐ来てしまうのだ。時間が直線的に一方方向に進んで行くのではなくて、円環の内部に止まって、永遠に娘の誕生から17歳ぐらいまでを繰り返させることはできないだろうか)」
(「ぱーぱ。女の子が17歳なら安全だなんて思ってるの? とっつぁ〜ん、あま〜いんっでないっかいっ」)。
(シェー!)。
 そして、唐突にスポーツカーでのカーチェースが始まる。私は再び主観的にセナの顔つきになる。ブーン、キリッ(似てませんか)。セシリアと暮らす限り、少なくとも退屈はあり得ないようだ。

第150章 新しい生活 https://note.com/kayatan555/n/n5e4a61a8386a に続く。(全175章まであります)。

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