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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第191回 第157章 展開し始めるふたりの人生

 この音でカメは午睡から覚め、出窓からはみ出してすぐ下の池にちゃぽんと落ちてクロールで泳いで行き、端に達すると鋭くターンを決めて体を捩って背泳に切り替え、遠い北の札幌では、窓越しの大通公園を見下ろす部屋の中で夕陽に照らされながら自責の念から固まっていた琵琶法師もようやく先を思い出して笑顔を取り戻した。
「諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、べん、べん、べん。袈裟夫先生ありがとうございました」
 牛車の時代は遠い昔になった。今も続いていたら交通渋滞は甚だしいだろう。ボクの独身時代のスポーツカーは維持費が嵩むので結婚を機会に売ってしまい、災害対策を兼ねて装甲車のようにいかつい頑丈な車に買い換えた。車体はピート・モンドリアンの絵画のような模様に塗ってある。ネコのバスがどこで買えるかは知らない。おせーて、誰か。夜中にうちの前を走っていないかな。寝室の窓に琥珀色の目玉が投影されて動いて消えたら、そのバスが来ていて車道で方向転換した証拠である。確かめたくても、窓をそっと開けて見下ろしては行けない。目が合ったら怖いことになる。セシリアはイギリスの小型車である。その後それぞれ何台か乗り換えている。
 ボクは、医学部生時代に薬学部のアメリカ人の助教授の先生にそそのかされて、大学構内で無免許のままオートバイに乗ってみたことがあった。学生時代にはいろいろな初体験があったのである。
「先生、ボクら誰もバイクの免許持ってないんですけど」
「黙っとりゃ、ばりゃーせんて」
(この先生は高校生の時に交換留学生で来日して日本社会にはまった、と言っているが、どこの高校だったのだろう。方言から見て、北海道でも東京・神奈川でもないようだな)。
「へば」
 その当時ボクはなかなか床屋に行く時間が取れずに髪は長めになっていた(一毛作半)。その髪をバンダナできつくまとめて上半身裸のまま鉄の馬にまたがり、エンジンをかけたのである。恐ろしかねえ。取り返しのつかない快感であった。風を切るってああいう感じだったんだ。奇跡的に右にも左にも倒れなかったが、緊張してハンドルを過剰に堅く握ったまま少し先まで走らせていったところ、反対側から別の学生がサドルの上にしかも片足で立って胸を張り両手を広げて、どこにも掴まらずに向かってきた。笑顔である。
「♪ たららららら〜」
 緩やかなカーブを描いてボクのすぐ近くを通り抜けていったのだが、どうやってエンジンを操作していたのか分からない。この学生が地面に立っている映像と、誰か別の人間がバイクを運転しているもうひとつの映像を合成して見せていただけなのかも知れない。
 そのとき以来折に触れて気になっていたバイクにも手を出して、真夏に道内各地を走っているバイク乗りの連中と価値観の一部を共有できるようになった。「不良お嬢」のセシル(ちょっとお、浄〜、もういっぺん言ったんさい。でも、おフランス語で呼んでもらうって良いわねえ)は高校生のときにイギリスで免許を取った。ヤマハの方が好きだったが、英国に滞在しているのだからと英国製のオートバイを借りて、緑なす丘陵地帯を縫うthe long and winding roadを亜音速で突っ走っていると、スピード違反で捕まりそうになった。摩擦熱で革ジャンが発火する寸前だった。ヘルメットを外して長い髪をこれ見よがしに揺らして、そばかすの目立つまだ若い警官に、「あら、日英同盟があるじゃな〜い」と艶然たる笑顔でウィンクをしてみたら、「まだ有効でしたか? えっ、Part IIに入っていたんですか、またもやグレート・ゲームのせいで? 極東の地理はよく知らないんですが、北海道の東向かいって中国でしたっけ?ああ、まだロシアですか。カナダかスイスだったら良かったですね。それではツーリングの続きをお楽しみください。パブでビールを飲んだら、しばらく休んでから乗車するようにお願いします」と敬礼までされて無罪放免となった。
(良かったのかなあ、これで)。
 毎年8月初めに富良野で催されるミーティングに夫婦で参加するのが楽しみとなった。昔は誰も富良野に見向きもしていなかったのだが、最近は国際的に知られるようになってしまっているので、用心して宿泊施設は2年先の予約を入れることにしている。定宿の部屋の外は白樺の大木群である。

第158章 ひとりからふたりへ、ふたりから5人へ https://note.com/kayatan555/n/nf57e7e80429d に続く。(全175章まであります)。

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