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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第89回 第72章 セールに風を張って

 最も苦労したのは5箇所のマーク回航での抗争だった。それぞれの方向転換点をマークと呼んでいる。そこを曲がるのが回航である。風上、風下のそれぞれの場合について国際的な競技ルールがあるのだが、我々はその規則を準用しないため、勢い相当ラフな争いが勃発する。レースは反時計回りなので、このすべてのマークで右に60度程度逸れる急転換が必要である。アニメのキャラクターを描いたマーク周辺半径約50メートルほどのごく狭い海域に同時に最悪15隻もの艇が集中するレースの修羅場である。怒号が飛び交い、侍同士の白兵戦のような有様である。刃が光り、矢が降ってくる。内浦湾が壇ノ浦化するのだ。上空から航跡を記録すれば、まるで組紐を制作している最中のような入り組んだ模様が描けるだろう。
 修羅場といえば、一句捻りたくなる。
  鎌音は
   師範の
    修羅場
(チェーストって聞いたことがあるような気がするが、どんな意味か分からない)。
 また一句。
  早々と
   部員飛び込む
    早とちり
 その後はまた直線コースで追いつ追われつの熾烈な動的対峙が続いた。一見優勢に見えていても、その直後に方向転換を2回しただけで200メートルも差を付けられてしまうこともある。どーなってんだ。
 ボクらは全力を尽くした。それに偽りはない。しかし、大学キャンパスから至近距離に艇庫があって、プロ並みに訓練を続けている他の大学や高専のヨットマンたちに太刀打ちできるはずもなかったのだ。うちの医大からは、遠く離れた海岸に行ける回数も限られていたし、北海道では寒くなるとシマリスやヒグマと競って冬眠の準備に入るため、南の地方のチームとは練習可能期間が違い過ぎたのだ。こうした言い訳が男らしいことではないことは承知している。しかし、本質的に不平等なこの社会で、それぞれの人間ができる範囲で最大の努力をすることが尊いのではないのか。
 結論として、奮闘むなしく、僕らは強豪チーム群にまったく歯が立たずに敗退した。でも、ゴールインは果たせた。蒼海に白の一筆書きの航跡で五芒星を描き切ったのである。その航跡はほどなく次々と波でかき消されていった。最低限の目標は達成して、来年度の学内チームに夢を託したのだ。挑戦して良かった。
„Überall!”
(総員甲板へ!)
 艇の舳先がゴールのレーザーを横切り、完航認定のフラッグが力一杯振られ、同時に銃声が2発連続で聞こえた。
「バンッ、バンッ」
 鳥が1羽落ちてきた。とばっちりやねえ。
 市丸模様の旗が振られた瞬間、オレたちは誰も事前に予想さえしていなかった真似をした。シャワーを浴びていない、髭も剃っていない部員同士狭い甲板上で抱き合って、声を上げて泣いてしまったのだ。一生の不覚とはこのことだな。目が滲んでお互いの顔がはっきりと見えなかった。そう鑑賞価値の高い容貌の奴らではなかったのだ。どうせならもっとイケメンの方が良かったな。ボクは幼稚園の2ヶ月ごとの合同誕生会にショートケーキが出されて、最後に食べようと思っていたクリームのついたイチゴを隣の子につまみ取られて小さな椅子の上に落とされて、その上に座られたとき以来の涙だった。父が亡くなったときは、なぜか少しも泣けなかったのだ。艇はまだ慣性で進み続け、速度を落としていった。おい、そこのドローン、こんなところを撮影するな。猟銃で撃ち落とすぞ。記念写真は、艇から海に飛び込む瞬間を捕らえたものである。うまく撮影できた写真は少ない。
「これ海坊主が海面から飛び出す瞬間の写真ですか?」
(なんでわかったとでしゅか)。

第73章 闘いの後の「円形湾」(“The Round Bay” After The Battle) https://note.com/kayatan555/n/nb2f924096203 に続く。(全175章まであります)。

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