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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第179回 第145章 芝生の上での家族写真

 この日に合わせて、デイビッドはこの自宅に親戚の一部も呼んで、娘の婚約者紹介の場としてくれた。婚約者って誰のことっすか?へい、あっしのことでござんす。てへっ(Theの読み方ではござんせん)。ボクは夫としての責任を果たして行けるだろうか。
 デイビッドは、さっさとパーティーの場を取り仕切っていく。とっつぁーん、こういうの感心するぜ、おれ。どの社会にもリーダーシップが必要だ。形式的平等は偽善と不決断を招く。横浜・初代ジェファーソンが種を播いて作り始めて以来1世紀半経っている芝生にテーブルを並べて昼食会を開催してくれた。デイビッドは、お酒が入る前の方が良いな、と言って、たくさん実の生った樹齢150年ほどのオリーブや他の木々、花々の横で、セシリア一家とボクで一緒に家族写真を撮影した。セシリアの父親は今でもまだ第一線でモデルができそうなほどのダンディー振りである。あたし負けそう。元バスケット選手なのだそうである。ボクシングや槍投げや重量挙げの選手でなくて良かった。
 札幌のボクのうちでは父も加わった家族写真は少ない。小2の時の写真でボクは模型飛行機を手に持っている。この後、主翼のプロペラを兄に曲げられてしまい、さらに胴の部分に落書きをされてしまったので良く覚えている機種だ。父は後ろに立って母と一緒にボクと兄を笑顔で抱きかかえている。父が、あのころはボクの家族に父がいた。
 ボクが医学部に入ってから何年後かに、「北朝」と「南朝」のそれぞれのボス猪が相次いで亡くなり、長年の対立はウソのようになりを潜めていった。南北朝は事実上合一したのだ。これが20年ほど早かったら、父は北海道に居続けないで京都や関西のその他の場所に永住の場を求めたかも知れなかった。その京の親戚のひとりから聞かされたのだが、父は京都大学医学部に戻って助手になり、その身分でアメリカ東部の某大学で長期在外研究をするようにと複数の教授から働きかけを受けていたのだそうである。これは定年まで京大に在職する可能性が高くなるという含みであった。
 それなのに、父の英語論文を数本読んでいた医師から強引に共同研究を持ちかけられ、2年間と期間を限定されて旭川に家族同伴で転居していたのだった。その時点でこの医師は鷹栖町の医院で副院長として勤務する傍ら、医大の方の非常勤講師を務めていた。父は大いに迷ったのだが、中高を札幌で過ごしたため、生まれ故郷の京都の高温の夏と、その逆に、虐められるような冬の気候に再馴化が困難になってしまっていたのが禍した。一見矛盾しているように感じられるだろうが、屋内、室内は、北にある旭川の方が暖房完備で暖かいのが普通なのである。
 しかし、どのような学内力学の作用があったのかは不明だが、この医師はうちの一家が札幌から旭川に移った翌月に専任講師に採用され、さらにそのわずか9ヶ月後に一気に教授になった。極めて異例の人事であった。すると平家になった医師は父に対する態度を一変させ、父は京大助手に採用され、しかもアメリカにしばらく腰を落ち着けて医学研究に専念するというこの上もない栄光のチャンスを奪われてしまっていただけでなく、今度は道北のこの全国一北に位置する医大で、このスピード出世医師の無名の下請け業者扱いを受ける立場に陥らされてしまったのである。
 若い医師であった父は、そうした失意と屈辱の日々のある晴れた夏の日の朝に、帆掛け船をプレゼントされたばかりで有頂天になっていた次男のボクを連れて常盤公園に気晴らしに向かったのであった。昼食は、ぎとぎとした脂の乗った火傷をしそうに熱い硬めの麺のラーメンを食べて、ソフトクリームで口の中を冷やして、帰りは書店で本を探し、母に何か花を買って帰るはずであった。

第146章 古いインク、新しい文字 https://note.com/kayatan555/n/n9717ec963040 に続く。(全175章まであります)。

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